トップ箱根の交通事情 ③箱根登山鉄道【コラム vol.10】

2024.4.30

箱根の交通事情 ③箱根登山鉄道【コラム vol.10】

フォレストアドベンチャー・箱根

箱根登山鉄道は、古くから栄えた温泉場である湯本から順に、塔の沢、大平台、宮の下、小涌谷、強羅といった名湯が沿線に並び、これらの駅に順に停車しながら終点の強羅までの約40分の路線。 

車窓からは桜、あじさい、新緑、紅葉と、季節によって四季折々に移り変わる景色を、渋滞に悩まされずにゆったりとした列車旅を楽しめます。 

数々の橋梁とトンネルを抜け、登山鉄道を特徴づけるスイッチバックは、車両の進行方向が逆向きになるため、運転士と車掌が入れ替わる場面が見られます。 

箱根登山鉄道は、スイスを代表する山岳鉄道の「レーティシュ鉄道」と姉妹提携をしており、現在運行されている車輛の外装は、アルプスを走るレーティシュ鉄道と同じカラーになっています。その為、特にヨーロッパからの観光客には親しみを持たれています。最近では魅力ある観光地としての評価が外国人の間で高まり、以前のも増して多くの外国人観光客が訪れるようになりました。 

前回のコラムでご紹介した通り、小田原電気鉄道は明治33(1900)年の電気鉄道開業当初から、箱根山中への路線延長を要請されており、当初から外国人観光客の更なる誘致を図ろうという構想から始まったものでした。 

今回は、日本唯一の登山鉄道である箱根登山鉄道の開設に至る迄をご紹介します。 

前述した路線延長要請を受けた小田原電気鉄道では、湯本と宮城野を結ぶ路線延長を届け出たものの、この延長計画は同年9月17日の臨時株主総会で否決されてしまいます。その後、登山鉄道構想は息を潜めますが、明治34(1901)年に小田原電気鉄道第4代社長に就任した草郷(そうごう)清四郎は、この計画の調査・研究に着手します。 

明治40(1907)年、スイスの登山鉄道を視察した箱根在住の益田孝ら実業家は 

「海外からの観光客を更に誘致するため、スイスをモデルにした登山鉄道を箱根に建設すべし」 

と、箱根を周遊する鉄道構想を小田原電気鉄道に勧告しました。 

(三井物産社長・益田孝)

これを受けて、明治43(1910)年1月29日の臨時株主総会において、湯本から強羅へ路線を延長すること、その為に資本金を220万円に増額することを決定しました。同年4月には路線延長を当局に出願し、更に翌月には強羅から仙石原を経て、当時の東海道本線佐野駅(現・御殿場線裾野駅)への延伸計画をも追加しました。 

かつて、東海道本線も「天下の険」である箱根を越えることは出来ないと、大幅に迂回して現在の御殿場線のルートとなっていました。それを越える計画として、当時としては常識を超えたものでした。 

この当時、小田原電気鉄道の他には静岡県の駿豆電気鉄道(現伊豆箱根鉄道)など4社が箱根に登山電車を走らせる計画を出願していたが、翌明治44(1911)年3月1日に小田原電気鉄道に登山鉄道建設の免許が交付されることになりました。 

当初の計画では、須雲川の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台へ抜け、宮ノ下を経由して強羅に行くルートでした。距離も他と比較して短く安全性も高いが、地形的に数多くのトンネルを開かなければならないという問題がありました。しかし、頻発する早川の水害に対応するために風祭と湯本の間の軌道を変更することになったため、登山鉄道のルートも再検討することとなります。 

明治44年5月には最高勾配が125パーミル(1000分の125の傾斜。1000m走る間に125m登る斜度)のアプト式鉄道とする計画に変更されます。アプト式鉄道とは、線路の中央に歯型のレールを敷設し、車両の床下に設置された歯車と噛み合わせることで急勾配を登り下りできる鉄道のことです。 

(アプト式の歯車と歯状のレール)

しかし、当時すでに最急勾配が66.7パーミルのアプト式鉄道として開通していた信越本線の横川駅と軽井沢駅の間よりも急勾配であることから、社内で不安の声が上がった上、自然と景観を破壊する恐れがあるという理由により、再度検討することになりました。 

明治45(1912)年7月、小田原電気鉄道は技師長を欧州に派遣しました。約半年間に亘る技師長の視察の報告では、登山鉄道の多くは急勾配でも補助を必要とするアプト式ではなく、一般的な鉄道と同じく車輪とレールの粘着力だけで走行しているものが主であったといいます。中でも、スイス南東部のベルニナ鉄道は、箱根と距離や急勾配という点に似ているところがあって、大いに参考にされました。 

これにより、新しい改訂案では先にあげたヨーロッパ各国の登山鉄道と同様に粘着式(一般的な鉄道駆動方式)が採用され、出山・大平台・上大平台の3ヵ所にスイッチバック線を設ける登坂方法を用いる事になりました。スイッチバックは山の斜面を登るために、車両を前後に移動させつつジグザグに進む方式です。 

(建設中の出山スイッチバック線)

これによって最急勾配は80パーミルに緩和されましたが、この80パーミルでも日本一の急勾配であり、現在の箱根湯本駅を強羅に向けて出発すると、いきなりこの日本一の急勾配が始まり、3両編成の電車の前後の高低差は約3.6メートルにも達し、車内にいても車両が斜めになるのを実感できます。 

(80パーミルの傾き)

(箱根湯本駅の80パーミルを示す標識)

また、自然の景観を損なわないよう線路は山ひだを縫うように設計され、延長距離は8.3km(のちに8.9km)と最初の設計より1km余り伸びる結果になりました。 

線路の最小曲線半径は他に例を見ない30mが採られました。一般地方鉄道で最急とされている極限は80mであるから、30mが如何に急カーブであるかが分かります。 

(30mの曲線半径)

登山鉄道建設工事は、大正元(1912)年11月8日に着手されていたが、これら設計変更や折からの不況もあって、起工後まもなく中断されました。 

大正2(1913)年3月27日に計画・設計の変更を鉄道院に提出し、登山鉄道の建設は開始されたものの、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり、資金調達に苦慮することになりました。こうした設計の変更に伴い、小田原電気鉄道では大正3(1914)年6月24日の臨時株主総会において延長線建設資金に充てるべき社債の募集を行うことで建設資金を確保します。これらの資金調達に応じたのは、東京の資本家が中心でしたが、これは多数の財界人と交流を持っていた益田孝の存在が大きかったとみられています。 

更に、大正3年に勃発した第一次世界大戦の影響で、輸入予定だった車両や建設資材の未着や遅れが発生したことに加え、温泉の湯脈に影響を与えないための路線変更もあり工事は遅れに遅れ、工事が再開されたのは大正4(1915)年8月1日でした。 

最も難航を極めたのは早川橋梁の架設工事です。径間長60.65m、水面からの高さ43m、しかも左右にはトンネルが迫っています。この地形に合わせた橋を設計したものの、時は第一次世界大戦の最中で、材料の輸入は途絶し、国内製も価格は暴騰、見積もり各社は全て手を引く有様で、仕方なく東海道本線の天竜川橋梁であった橋の払い下げを受けて転用する事にしました。 

川床から43mの足場を設置するだけでも大変な労力と日数がかかりましたが、早川橋梁は、大正6年5月31日に完成しました。架橋が完了したので、次の日から足場の解体作業に就こうと思っていたところ、その晩に暴風があり、翌朝には足場が無くなっていたそうです。 

(建設中の早川橋梁の足場) 

早川橋梁は通称、出山の鉄橋と呼ばれ、明治21(1887)年イギリス製のダブルワーレントラス橋で、国の登録有形文化財に指定されています。 

発電所については、新たに三枚橋発電所を建設して大正7年11月に完成し、代わりに湯本茶屋発電所は廃止されました。 

登山電車はその特性上、急勾配を登るにはそれほど問題はありません。しかし、下りについては非常な危険を伴います。このため、用いられた車両の日本車両製造(株)製チキ1形は、運転保安設備には万全が期され、常用として発電電気ブレーキと空気ブレーキを併用し、非常用として爪がレールに吸着する装置と予備に手動を備えれば、万一の場合でも十分に減速できる事が実験結果で明らかになりました。更に各軸に電動機を搭載した全電動車とすることによって粘着力を高めました。 

また、急曲線でのレール摩耗対策として、運転室床下の水タンクから散水を行っているほか、車体長を14mに抑えました。 

(強羅駅に停車しているチキ1形)

そして箱根登山鉄道の終点となる強羅駅周辺のシンボルとして設けられたのが箱根強羅公園です。主に華族など上流階級の親睦・保養施設として大正3年に開園し、噴水池を中心に左右対称な地割り構成が特徴で、当時、造園の第一人者と言われていた一色七五郎氏がフランスの公園様式を参考に設計しました。ちなみに、現在「箱根クラフトハウス」がある場所には、開園当時プールがあったそうです。 

全ての工事が終わったのは大正8(1919)年5月24日で、着工から7年以上が経過していました。そして6月1日、箱根湯本~強羅間8.9㎞の運転を開始。途中には12のトンネルと24の橋があり、海抜90mの箱根湯本駅から海抜553mの強羅駅までを登る、我が国唯一の登山電車・箱根登山鉄道の誕生です。ここでしか見られない特殊な技術が採用されている点も特徴です。 

(開業当時の箱根湯本駅) 

更に、大正10(1921)年6月より、強羅から伸びる箱根登山ケーブルカーの建設を進め、同年11月に完成、12月1日に営業を開始しました。これは大正7(1918)年に開業した生駒鋼索鉄道に続く2番目のケーブルカーで、関東では初でした。 

(ケーブルカー初代車両「ケ型」)

社長である草郷清四郎は社長就任以後20余年間、常に陣頭に立って登山鉄道の敷設、ケーブルカーの架設、不毛の荒地である強羅の別荘地開発などを完遂し、大正10(1921)年11月、草郷はケーブルカー開業を機に同社取締役社長を辞任、晩年は箱根湯本で隠居生活を送ったのち、大正13(1924)年8月9日、東京の本邸で亡くなりました。78歳でした。草郷は「時の先覚者」とも「小田電中興の祖」とも呼ばれました。 

平成19(2007)年には登山鉄道としてのシステム全体の価値が認められ、土木学会が選奨する土木遺産に選定されました。 

登山鉄道は、それまで馬や駕籠に頼っていた箱根観光を劇的に近代化させました。登山鉄道に乗車した際は、その流れる車窓から「箱根八里」でも歌われた、万丈の山、千仞(せんじん)の谷を克服した先人たちの努力には思いを馳せてみませんか。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ

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