トップ箱根の交通事情 ①小田原馬車鉄道【コラム vol.8】

2024.3.6

箱根の交通事情 ①小田原馬車鉄道【コラム vol.8】

フォレストアドベンチャー・箱根

現在、箱根の雄大な自然の中を走る箱根登山鉄道やバスをはじめとして、急峻な坂もモノともしない箱根登山ケーブルカー、空中散歩が叶う箱根ロープウェイ、富士山を映す芦ノ湖を優雅に巡る箱根海賊船・箱根芦ノ湖遊覧船と、陸海(湖?)空すべての交通手段があり、さながら乗り物テーマパークと言え、公共交通機関だけでもスムーズに旅が楽しめます。

これまでのコラムでも、数々の先人が箱根の交通事情を改善しようと取り組んできた事をご紹介しました。今回は、箱根登山鉄道の前身となる、小田原馬車鉄道について取り上げます。

明治16(1883)年、現在の東海道線が横浜から国府津までの建設が進められますが、その先のルートが問題になりました。当時の鉄道技術では急峻な箱根峠を登ったり、長大なトンネルを掘る事が出来ないため、国府津駅からは現在の御殿場線のルートで箱根の外輪山を迂回する様に建設される事が決定しました。

これにより、それまで東海道有数の宿場であった小田原や、湯治客により栄えていた箱根は当時の交通のメインルートから外れる事になってしまい、小田原や箱根の人々は、客足が遠のく事に強い危機感を持ちます。

そこで、現在の箱根湯本の人々が発起人となり、資金や技術的な面から最も適していた馬車鉄道を開業する事にしました。馬車鉄道とはレール上を走る客車を馬に引かせる鉄道です。通常の馬車に比べて乗り心地もよく、輸送力も大きい馬車鉄道は、日本で唯一開業されていた東京馬車鉄道を手本とすることにしました。

明治20(1887)年7月1日に現在の東海道線である横浜〜国府津間が開通することから箱根までの人々の流れを作ろうと図ります。

明治20年2月21日、吉田義方・今井徳左衛門・二見初右衛門・福住九蔵・寺西台助・益田勘左衛門・杉本近義の七人が出資して、資本金6万5千円で「小田原馬車鉄道株式会社」を設立。本社を幸町1丁目24番に設置しました。日本では3番目となる馬車鉄道です。

敷設の許可を得た小田原馬車鉄道は、同年3月に測量を開始、レール敷設工事に取り掛かります。工事は官公庁をはじめ、地元有力者の強力な後押しの元に進められた事もあり、半年後の同年9月3日に全線竣工という驚くべき短期間のうちに終了しました。

馬の厩舎は松原神社の裏に建てられ、車両は英国製6両、米国製5両を購入し、開業を待つばかりとなりました。

翌明治21(1888)年10月1日に神奈川県の許可が下り、新装したばかりの本社社屋での開業式が行われた後、全線の営業が開始されました。

起点は国府津停車場前から小田原を経て、終点の箱根湯本駅は湯本の旭日橋の手前広場、現在のホテル河鹿荘辺りまでの12.9km、現在の国道1号線とほぼ同じルートで開通しました。

この時の経路は小田原市内から早川左岸を通っていましたが、湯本駅手前の山崎付近は切通しで道が越える台地であったので、鉄道はそれを避け前田橋で早川右岸に渡り、落合橋で左岸に戻り湯本駅に至っていました。現在のあじさい橋上流右岸の遊歩道が開業時の路線の跡です。河鹿荘入口道路脇には「小田原馬車鉄道・電気鉄道 湯本駅跡」の案内板があります。

(小田原馬車鉄道 湯本駅)

鉄道とは言うものの、実際は線路の上を二頭の馬が客車を引っ張りながら進むというのどかな乗り物で、馬が相手のため、途中で止まったり脱線したりすることも日常茶飯事だったと言います。

それでも、所要時間は国府津-小田原間が40分、小田原-湯本間が40分と、それまでの人力車や馬車などに比べれば格段に速く、更に運賃も最初の頃の乗車料金は、下等が国府津―小田原間6銭、小田原―湯本間8銭と、現在の3~400円ほどと手頃だったため、市民の足として利用しやすい乗り物でした。ちなみに、中等が国府津―湯本間30銭、上等は50銭でした。

地元民の期待を乗せた馬車鉄道にも不満や反対の声もありました。馬車鉄道の創設によって仕事を奪われた人力車夫や乗合馬車の営業者は馬車鉄道の運行に反対し、レール上に大きな石を置いたり、馬車に投石するなどの妨害行為や、役員の屋敷に押しかけるなどの行動に出た事で、乗員・乗客や馬の安全を確保することが難しくなり、1か月ほどの運行休止を余儀なくされる事態に陥いります。

折しも、元内閣総理大臣の伊藤博文が静養のため小田原の別荘に滞在していた時で、この騒ぎを知った伊藤は、神奈川県知事に対して運行事業者の保護と暴力行為に対する取締りを強く求めました。これを受けて、会社側は二代目社長に元警察官の田島正勝を迎え、社員にも元警官を採用して沿線の警備を行うことで妨害行為に対処し、ようやく馬車鉄道は平常運行が可能となったといいます。

しかし、馬車鉄道が走る沿道の住民からも不満の声は上がりました。馬車が落としていく馬糞の悪臭と、絶えず蝿が群がり、雨では馬糞が飛び散り、天気が続くと馬糞が乾いて埃が舞い上がるという非衛生的な状態、馬の蹄によって軌道の傷みが発生したり、馬が伝染病に罹ったり、馬の飼代が高騰するなどの要因もあり、経営的には苦しい状態が続きました。

明治23(1890)年4月1日から東京・上野公園で開かれた第三回内国勧業博覧会を見学していた田島や吉田ら経営陣は、出展されていた路面電車を見て積極的に電車の導入を図ります。同年10月の株主総会で電気鉄道への変更を提案しますが、時期尚早として見送りとなってしまいます。

無理もありません。まだ小田原や箱根に電車どころか電灯も無かった時代です。

ともあれ、賛否ある沿道の人々の声を受けながらも馬車鉄道は走り続けました。馬車鉄道の運行によって外国人旅行客の増加が見られるなど、小田原馬車鉄道の開業が小田原や箱根が交通の近代化から取り残されるのは免れた事は確かであります。

明治29(1896)年7月18日、電気鉄道敷設の許可を得て、同年10月15日に社名を「小田原電気鉄道株式会社」と改称、資本金70万円をもって電化計画の実施が進められました。高騰する馬の維持費による経営難を打開するため、電化への転換という起死回生の経営判断でした。

電気鉄道を実現するためには、その動力となる電気を生み出す発電所の建設が必要です。調査・研究の結果、箱根湯本茶屋須雲川橋付近(現在のホテルおかだ辺り)に須雲川の水勢を利用した水力発電所を建設することを決め、明治32(1898)年5月より着手、同33(1900)年2月に完成しました。

発電所の建設に平行して、鉄道の電化工事も明治32(1899)年2月15日から開始され、同33年2月には工事を完了しました。

(湯本茶屋発電所)

こうして明治33(1900)年3月21日、小田原電気鉄道は国府津ー小田原ー湯本間の運転を開始しました。日本で四番目、神奈川県下で二番目の電気鉄道の誕生でした。

(開業時の小田原駅の様子)

これは一方で馬車鉄道の時代に終わりを告げるものになりました。同年5月10日に発表された『鉄道唱歌』では、12番で「国府津おるれば馬車ありて…」と歌われてますが、第2版以降では「国府津おるれば電車あり」と、急遽書き直されたのでした。

地元の人々が一念発起して馬車鉄道を開業し、馬車鉄道は延べ乗車人数約200万人の人を箱根へと運びました。この事で旅行客は途絶えることなく、その後の「箱根登山鉄道」の誕生へと繋がりました。次回は小田原電気鉄道と登山鉄道開業についてご紹介します。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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