トップ伝統と革新の二代目・山口正造【コラム vol.7】

2024.2.13

伝統と革新の二代目・山口正造【コラム vol.7】

フォレストアドベンチャー・箱根

前回のコラム「国際観光の先駆け・山口仙之助」の中で、富士屋ホテルの創業者・山口仙之助を取り上げました。今回は山口仙之助の実質的な後継者である山口正造について取り上げます。

山口正造は、明治15(1882)年7月、金谷善一郎の次男・金谷正造として生まれます。

父・善一郎は、医師で宣教師のジェームズ・ヘボンの薦めで外国人向けの民宿「金谷カッテージ・イン」を明治6(1873)年に日光で創業していました。これは現在の日光金谷ホテルに繋がる、現存する日本最古のリゾートホテルです。

明治25(1892)年、3歳上の兄・眞一が東京築地にあった立教学校(現・立教大学)初代校長で建築家ジェームズ・ガーディナーの薦めで同校に進学した事から、正造も兄と同じ学校で英語などを学びます。

この翌年、父が外国人向けのホテル「金谷ホテル」を開業する事を企図しており、英語は外国人向けのホテルを運営していく上で必要なものでした。

正造は負けん気が強く、考えるより行動する性格だったようで、正造は語学の他に柔道、銃剣術といったスポーツを得意にしていました。

病気で休学した事をきっかけに世界一周を目指してアメリカ行きを志願します。父が苦労して工面した現金を持たせてくれましたが、「成功する迄は帰るな!」と父に励まされ、その決意の下に、17歳で単身サンフランシスコに旅立ちました。

当初、あてにしていた人物と会えず、教会の世話になったのちカナダ・バンクーバーへ。そこで日本人労働者向けの日雇いの英語教師をしている時に、偶然、金谷ホテルに宿泊した事のあるイギリス人と再会し、イギリスまで連れて行ってもらいます。

そしてロンドンで当時の駐英大使がヘボン博士の英語塾出身だったことが縁で、大使館に直談判してボーイに採用されて働くことになりました。この時、大使館で行われる宴会などからイギリスの貴族社会の様子を知った事が、後にホテルを経営する上に役に立ったといいます。

約2年後、駐英大使の転勤に伴って大使館での仕事を離れる事になりますが、何も仕事はなく、蓄えた金も無くなり、職を求めてさまよっていた街中で、2人の日本人柔道家と知り合いました。彼らはイギリス人が経営する道場で柔道を教えていたが、英語が苦手であった事から不当に安く使われていました。そこで正造は、2人に対する不当な扱いを指摘してその柔道場を辞めさせ、彼らと一緒に柔道の道場を開いて、柔道の興行をやる事を思いつきました。柔道は立教学校時代に多少の心得がある事から、正造はマネージャー役だけでなく、自ら実演もするようになります。

この頃、柔道はヨーロッパに紹介されたばかりというのと、日露戦争の勝利で日本に関心が高まっていた時期であった事から、柔道の道場は賑わい、実演は大学や警察署でも指導を求められるまでになりました。

そんな正造の様子を、日光の父・善一郎と兄・眞一は全く知る由もありませんでした。ある日、2人は金谷ホテルの宿泊客が置いていったイギリスの雑誌に掲載された正造の姿を見て驚きます。それはパリで正造がロシアのボクサーとの試合に勝った、という記事でした。

正造は下宿業を営む家のイギリス人女性との結婚を望み、故郷の父に結婚の許可を求める手紙を書いて送ります。しかし大反対されてしまい、悩んだ正造は彼女との結婚を諦め、父に呼び戻され、明治39(1906)年、25歳の時に7年に及んだ海外生活から帰国することになりました。

帰国した翌明治40年(1907)年、箱根・富士屋ホテルの創業者である山口仙之助の長女・孝子と結婚、山口家に婿入りします。孝子夫人は英語は元よりフランス語にも堪能な才女で、父・仙之助の右腕、富士屋ホテルの華とも言える存在でした。

正造もまた、外国経験が豊富で英語が達者、ヨーロッパのホテルをたくさん見ていました。趣味は旅で、富士屋ホテルに来てからも冬のオフシーズンには東南アジアや南洋地域に足繁く出かけ、現地で見聞きしたものをホテル経営に取り入れようと図りました。似たもの同士とも言える仙之助と正造は度々意見の違いで衝突することになります。

仙之助と正造で違っていた考えのひとつは温泉に関する考え方でした。

温泉の効用を積極的に宣伝することを正造は主張するが、仙之助は下手に宣伝してホテルが病人の療養所になっては困ると考えていました。当時はまだ温泉と言えば湯治のイメージが強かったからであります。

そこで、正造は勝手に温泉を使って温室を作りました。勝手に作ったものの、仙之助は温室に咲いた植物を見ると、気に入ったのかそれを認めました。今もホテル客室やダイニングテーブルの上を飾る花も、全て温室で栽培されているものを使用しているといいます。一時期は顧客から贈られた、南洋産のワニをこの温室で飼っていたこともあります。

この温室は、正造が初めて自分の意見を富士屋で反映させた場所であり、ここから正造の構想が冨士屋に反映されていきます。

大正3(1914)年3月、仙之助は病気のため社長を辞任し、後任社長には長男の脩一郎、正造は専務取締役として経営に当たる事になります。新しいものと人を楽しませる事が大好きな正造は、養父に負けない新機軸を打ち出した様々な仕掛けを発揮していきます。

そのひとつに、「万国髭倶楽部」の創設があります。入会条件は最低2インチ(約5センチ)以上の髭がある事で、正造自身も毎晩ヒゲに油を塗り、就寝時はヒゲ専用のケースをつけていたといいます。
正造はこのように語ります。

「お客様に覚えて貰いやすいようにすることが必要だ。その為には、ヒゲは最もよい目標となる。」

と。富士屋ホテルの海外宣伝効果を高めるために行った奇策とも言えますが、10ヶ国43名が会員登録するまでになり、正造の考えた独自の国際交流でした。

箱根の交通問題には義父の仙之助も取り組んでいましたが、ある時、宿泊客が頼んだ貸自動車が約束した時間よりも遅れて配車され、国府津駅への到着時間が遅くなって列車の発車時刻が危うくなるという事態が発生しました。後日、この顧客から、

「富士屋ホテルともあろうものが、なぜ他社の自動車を頼りにするのか。一流のホテルが1台の自動車も持たないのか。」

との意見書が送られました。これを受けて、大正3(1913)年8月15日に富士屋自働車を創設、国府津駅と宮ノ下のホテルを結ぶタクシーを運行すると共に、大正8(1919)年からは乗合自動車、つまり今のバスの運行も開始、目立たせるために赤く塗った自動車は好評だったようで、その形から「富士屋の弁当箱」と呼ばれたそうです。

これは神奈川県下においても初となる本格的な路線バス運行であり、幾多の変遷で名前を変えるも、今も運航を続けている箱根登山バスとなっています。

欧米の一流ホテルではゴルフ場も併設されていたため、富士屋ホテルもそれに倣おうと、大正6(1917)年4月4日、仙石原に9ホールのゴルフ場の建設に着手した。

建設には数千人の村民が手伝い、同年12月、「仙石ゴルフコース」9ホールが完成し、翌年にクラブハウスが完成しました。これは日本で2番目に古いパブリックコース(非会員制)で、開業当時は地元の子供たちがキャディーをする光景も見られたそうです。

皇太子殿下(後の昭和天皇)が宮ノ下御用邸に避暑で訪れている時は毎週のようにお見えになられたそうです。

大正11(1922)年、日本を代表するホテルである東京・帝国ホテルの本館が火事で焼失する事態が発生しました。このため経営陣を一新する事になり、新会長となった大倉喜七郎男爵は、正造のホテル経営の手腕を見込んで要請し、6月24日に帝国ホテル新館の支配人に抜擢されました。

この時は義理の甥にあたる金谷正生(まさなり。妹・多満の夫で金谷ホテル役員)と共に、翌年4月までの短期間でしたが経営に当たっています。

箱根の交通インフラの整備が進んだ事で、芦ノ湖に映る逆さ富士や、釣りなどのレジャーを求める人が増えることを見込み、大正12(1923)年6月に芦ノ湖畔の老舗旅館「はふや」を買収して「箱根ホテル」を開業、大規模な新築・改築を行いました。

ところが、開業から僅か2カ月半後に関東大震災が発生して建物は全壊してしまいました。存続が危ぶまれましたが、「自分の生んだ子供はどうしても育てて立派なものに仕上げなければならぬ」と復興を目指しました。

富士屋ホテル自体も敷地内の多くの建物が倒壊する中、本館と西洋館は倒壊を免れたものの、断水したため、翌年夏頃まで営業を休止しました。当時、本館の後ろにある庭園の一角にあった井戸がホテルの食事や洗面に役立ち、水道工事が完全に復旧するまで利用され、現在もこの古井戸跡は、「ホテルの守り神」として大切に祀られています。

昭和4(1929)年、合理的な経営とホスピタリティを活かしたサービスの教育を行う「富士屋トレイニングスクール」を開校、自ら校長となりました。

当時の旅館は「夜止屋(ヤドヤ)」と呼ばれ、夜の時間をしのげればよいというものでしたが、正造は手厚いサービスと近代経営を目指していました。

学校では3年間の研修で、ホール、食堂、料理場、倉庫、庶務、帳場(フロント)、案内所、客室、洗濯、酒場、売店、庭園、ポーターといった実務を中心に13科目のうち6科目以上を修め、ホテルの実務を実際に自分で経験しながら覚えるといったものでした。記録によると日本で初めて原価計算をしたホテルも富士屋ホテルだったといいます。

第一回卒業生4名を送り出したのが昭和8(1933)年。その後、昭和18年までに51名をホテル業界に送っています。戦後まもなく日本のホテルが苦労した時代に、富士屋ホテルは多くの旅館経営者の子女を受け入れ、その後活躍したのはこの学校出身者が多かったとされます。そのサービスは日本のホテル業界を牽引するものとなっていました。

外国生活が長かった正造は、ホテルを訪れる外国人客は日本ならではのエピソードを欲しているとして、昭和5(1930)年頃からメニューの裏に日本の文化、風俗、習慣、芸術などの日本を紹介する記事を英語で執筆した文章を掲載しました。カード状のメニューは毎日印刷され、食卓で話題に上りました。

後にこの文章が1冊の本にまとめられ『We Japanese』として出版され、日本を訪れた記念として宿泊客に飛ぶように売れたそうです。

外国人専用ホテルだからといってむやみに欧米化するのではなくて、日本の良さを海外に宣伝することが必要です。これはまさに富士屋ホテルが伝えようとしていた日本精神の解説書でした。

富士屋ホテルを印象付ける建築の数々、本館と西洋館以外の大正9年の「カスケードルーム」、昭和5年の「食堂棟」、昭和11年の「フラワーパレス花御殿」は建築道楽とも言われた正造が自ら設計に携わるなど情熱を注いだものです。

中でも、昭和5年の「食堂棟メインダイニングルーム・ザ・フジヤ」は、今でも当時の富士屋ホテルらしさを堪能できる空間です。日光東照宮本殿をモデルに造られており、天井高6メートルの格天井には日本アルプスの高山植物636種が描かれています。

天井付近の壁には308種類の野鳥、239種類の蝶が描かれ、ライオンや十二支を思わせる動物などの彫刻も見事です。欄間の上にある白い鳥の造形は、

「世界が平和でないと海外からお客様はやって来ない。その平和を象徴するハトを作って飾った。」

という意図が込められています。

床にはチーク材が敷き詰められ、豪華客船「クイーンエリザベス2号」やかつての豪華鉄道「オリエント急行」などの内装にも使われた、とても豪華な意匠です。中央の上部には、能の舞台があって、外国人を楽しませたそうです。その柱の表には、色々なスポーツのアイコンが掘られていて、これまた外国人客が喜んだそうです。

その一方、柱にある鬼の形相の奇妙な彫刻、これは、正造の顔をモチーフにした彫刻で、「従業員がきちんと接客するよう、社長自らが見張る」という名目で正造が造らせたそうです。

昭和11年、富士山を間近に仰ぐ河口湖畔に富士ビューホテルを開業しました。

昭和15年に行われる予定の東京オリンピックを意識して建てた山梨で最初の洋風ホテルで、屋根の上には2つの展望塔が設けられており、独特の外観はリニューアルされた現在でも継承されています。

正造は、箱根ホテルや富士ビューホテル、仙石ゴルフコースの開業、食堂棟・花御殿の建設など、ホテル経営者として型破りで華やかな多くの実績を残してきました。

一方で、突如襲われた関東大震災や忍び寄る日本の戦時体制など多くの危機に見舞われました。

実父と養父から受け継いだ日本の新しいホテル経営を体現すべく、時代の荒波のなかで常に挑戦する姿勢を崩さず、商機をつかんで現在のホテルサービスの礎を築いた正造は、昭和19(1944)年2月14日に亡くなりました。正造に子供はありませんでしたが、正造の一周忌を記念して集めた寄付を基に、昭和21(1946)年に正造の遺族と日本ホテル協会の人が立教大学を訪ね、正造の遺志を継いで、母校の立教大学でホテル関係の人材育成活動を続けてほしいとする申し出を行いました。こうして立教大学に開設されたのが、『正造記念育英会事業』で、日本の大学での観光教育のさきがけである『ホテル講座』となり、1967年に社会学部観光学科、1998年には日本初の観光学部が開設されるなど、現在の観光教育に受け継がれています。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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