トップ国際観光の先駆け・山口仙之助【コラム vol.6】

2024.1.26

国際観光の先駆け・山口仙之助【コラム vol.6】

フォレストアドベンチャー・箱根

前回のコラム「外国人の保養地・箱根」の中で、富士屋ホテルの開業に触れました。今回は日本を代表するクラシックホテルである富士屋ホテルの創業者・山口仙之助と富士屋ホテルのあゆみについて取り上げます。

富士屋ホテル創業者・山口仙之助は、嘉永4(1851)年5月5日に武蔵国橘樹郡大根村(現神奈川県横浜市神奈川区青木町)で、医師・大浪昌随の五男として生まれます。その後、山口粂蔵の養子となり、山口姓を名乗る事になります。 

江戸・浅草の漢学塾で学んだ後、明治維新の際に横浜に出て商売を学ぶ中で外国に関心を持った仙之助は英語を学び、明治元(1868)年の17歳の時、日本初のハワイ移民の渡航に際し通訳として随行します。その後も外国行きのチャンスを探していた仙之助は、明治4(1871)年11月にアメリカ本土の土を踏みます。 

ゴールドラッシュで沸くサンフランシスコなどで皿洗いに従事するなど、生活は苦労を重ねますが、その中で将来は牧畜事業が日本の将来に有益であると信じ、4年の苦労の末に蓄えた資金で7頭の種牛を購入し帰国。政府の主宰する農学校に牛を売り、その資金で慶應義塾(現・慶應義塾大学)に入ります。 

学長の福澤諭吉は単身渡米した仙之助の性質を実業界に向いていると見出し、これからの日本は貿易などにより外貨を獲得して国を富ませる必要があると師事します。 

仙之助は明治5(1872)年に滋賀県の大津に西洋旅館「開化楼」が外国人誘客を図った事や、明治6(1873)年に栃木県の日光で外国人向け民宿「金谷カッテージ・イン」(現・日光金谷ホテル)が開業した例があるが、外国人客専門のリゾートホテルが未だ日本に無いことに着目します。仙之助は、外国人相手の専用ホテルを運営することで、外国人から直接外貨を獲得し、国益に寄与しようと考えました。 

明治11(1878)年、慶應義塾大学を卒業した仙之助は、外国人にとって魅力的な避暑地・保養地として最適な場所などを考慮し、箱根でのホテル開業を目指しました。そこで箱根宮ノ下で江戸時代初期から続く老舗宿・藤屋を養父から借財をして買収・改築し、同年7月15日に日本初の外国人専用リゾートホテルとなる「富士屋ホテル」を開業しました。 

当時は箱根湯本から東海道を外れた宮ノ下へは交通が不便でしたが、富士山が外国人にとっての美の象徴であることを受け、出来るだけ富士山に近い立地を選びました。そして「藤屋」を「富士屋ホテル」と改称したのも、外国人が持つ富士山への憧れからです。実際はホテルから富士山を見ることは出来ないのですが、15分くらい歩いたところに富士山が見える「フジビュースタンド」という場所を設けました。 

当時、船で数ヵ月も掛けて来る外国人の荷物の量に合わせてクローゼットを広く設計し、更に日本人より身長の高い外国人のために、ドブノアの位置を日本の平均より10cmも高く設置するなど、創業当時から徹底して外国人仕様にこだわるなど、外国人客のための工夫が至る所に施されています。 

開業後、特に交通の不便さは苦難の連続でした。当時、外国人向けのホテルに必要な食材は現地で調達できないため、パンをはじめ、肉類や牛乳など、多くの食材や消耗品は横浜から小田原まで馬車で運び、朝の食卓に間に合わせるため、 毎朝小田原まで人夫を出して運搬するなど輸送だけで大変な労力を要しました。 

仙之助自身も着物に草履で駅まで客の出迎えにあたり、自らポーターの役目を果たしました。妻のヒサと共に外国人客へのサービスに努め、料理や給仕までこなしました。そういう努力の結果、富士屋ホテルのサービスは外国人からも称賛されはじめ、ホテル経営は軌道に乗り始めました。 

開業して5年後の明治16(1883)年、宮ノ下一帯の大火によりホテルが全焼、建物も財産も灰となり、仙之助は莫大な借金だけを抱える事になってしまいました。 

しかし、これを機に建物を一新しようと、館内はヨーロッパのクラシックホテルのようにバルコニーやガラス戸は洋風で異彩を放つ一方、寺社建築を思わせる和風の外観で、特徴的な入母屋屋根は伝統的な和風建築。現存する本館は唐破風を取り入れた社寺のような城のような、和洋折衷の木造建築。あたかも外国人が想像するディフォルメされた日本建築とも言える特徴的な富士屋ホテルの景観が生まれました。明治の建築様式を現代に伝える今や箱根のランドマーク的な存在です。 

輸送に苦労していた事から、明治20(1887)年に塔之沢・宮ノ下間の距離約7kmの道を、私費1万882円(現在の1億円相当)を掛けて、有料の人力車道を建設し、道幅を格段に広く平坦にして、人力車や馬車の通行事情を改善しました。更に明治22(1889)年には木賀温泉への道も延伸し、これは現在の国道1号線と国道138号線となります。 

春秋のシーズンには宮ノ下より箱根を一周するチェア(椅子に担ぎ棒を付けた乗り物)が70程あり、それを担ぐ300人近い人夫が毎朝、富士屋ホテル本館の前後を取り巻いていたと言います。 

明治22年には、今までの功績により宮ノ下にあった温泉村の村長に推され、街づくりにも尽力していきます。 

この頃、ホテルで提供していた牛乳は、仙石原村の牧場・耕牧舎より購入していましたが、明治23(1890)年、牛乳を自給するため5頭の乳牛を購入、牛舎を建築し牛乳販売を始めます。 

明治24(1891)年、国賓のロシア皇太子・ニコライが宿泊するホテルとして政府から指名されたのをきっかけに本館を建築。これが現在でも現役で活躍する「本館」です。木造でありながら大変強固な建物で、関東大震災の際もガラス戸一枚割れずに残り、現在でも一階フロント・ロビー、二階が客室として親しまれています。更に渓谷の水流を利用して自家発電を行い、館内に電燈を燈しました。これは関東における水力発電の嚆矢となります。 

このように、建物の新築と改造を繰り返し、設備の充実を繰り返していたのは、外国人客を巡って老舗の奈良屋との激しい競争がありました。しかし、この競争は明治26(1893)年になると、富士屋ホテルと奈良屋との間に富士屋ホテルは外国人専門ホテル、奈良屋は日本人専門旅館として住み分ける協定が結ばれることになり、これは大正元年まで続くことになります。

仙之助はこう語ります。「富士屋ホテルは、外国人の金を取るを以って目的とす。日本人の金を取るはあたかも子が親の金を貰うに等し、自分は純粋なる外国の金貨を輸入するにあり、日本人の客には来てもらはずともよい。」と。富士屋ホテルの名声を聞きつけた岩崎弥之助や古河市兵衛といった財閥の総帥が宿泊を打診しても、国益のため外貨を稼ぐために創立したホテルという矜持ゆえ、日本人は泊まらせないという事を徹底していました。 

明治37(1904)年には水力電気事業を開始し、宮ノ下水力電気所を設置。宮ノ下周辺にも電気を供給しました。現在も川久保発電所として地域を支えています。 

明治39(1906)年、今日の「日本ホテル協会」前身である「大日本ホテル業同盟会」を14ホテルで結成して会長に就任し、同業者の連帯と発展を目指しました。 

大正3(1914)年3月、仙之助は病気のため社長を辞任し、後任社長には長男の脩一郎、専務取締役に娘婿の正造を充てました。大正4(1915)年3月25日に死去、65歳でした。 

ホテルを快適に泊まるために行った水道・電気・交通・病院の整備は地域インフラに繋がり、箱根は明治末期でも年間で1万数千人もの外国人のお客様が訪れるリゾート地になりました。 

登録有形文化財でもある由緒ある建物は明治の面影を今に伝え、伝統と風格を保ちながらも、世代交代していく顧客を魅了し続け、親子三代に渡って利用する顧客も多い、愛される名門ホテルです。 

次回は、山口仙之助の実質的後継者・山口正造について取り上げます。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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