トップ外国人の保養地・箱根【コラム vol.5】

2024.1.12

外国人の保養地・箱根【コラム vol.5】

フォレストアドベンチャー・箱根

温泉観光地としての箱根には、年間1千万人を超えるお客様が訪れます。国内旅行者のみならず多くの外国人観光客が訪れ、2022年は約4万人でしたが、新型コロナウィルスが流行する直前の2018年は約60万人もの外国からのお客様が箱根町を訪れていました。 

箱根は首都圏からのアクセスの良さもありますが、外国のお客様にも温泉地としての箱根の知名度は高いものがあります。今回は箱根が外国人にも知られるようになった経緯について取り上げます。 

安政6(1859)年、日米修好通商条約に基づく横浜の開港により、横浜に住む外国人の居留地が設けられます。横浜居留地の外国人の数は次第に増加し、開港した3年後の居留地人口は130人前後ですが、明治十年代には3000人、明治二十年代には4000人から5000人に達します。 

当時、外交官以外の外国人の行動範囲は居留地から10里以内(約40km)に制限されていました。しかし、日本在住の外国人にとって日本の高温多湿の夏は耐え難く、港に近い密集した居留地では伝染病が流行することも多々あり、標高の高い涼しい場所に避暑地を求めました。そこで横浜から近い温泉がある高地である箱根が注目され、温泉を活かした湯治という名目で来訪する人が現れます。 

慶応3(1867)年4月、フランス人貴族・ボーヴォワールは世界旅行の途中で横浜に到着し、以後35日間日本に滞在しました。この間、江戸や横浜周辺の見学の傍ら、5月17日に箱根の宮ノ下を訪れ、宿屋(富士屋ホテルの前身にあたる藤屋か)に宿泊、宿の温泉に入浴しました。これが文献に見られる中で箱根の温泉に入浴した最初の西洋人とされます。 

当時の西洋人は混浴を不道徳なもの、野蛮なものと見ていましたが、ボーヴォワールは自ら望んで入浴したというのでおおらかな人だったようです。 

明治元(1868)年、イギリス公使パークス一行が夏の2ヶ月ほど、芦ノ湖畔に位置する東海道・箱根宿の旅籠・柏屋に滞在しました。これは、イギリス植民地だったインドを統治する総督府が、ヒマラヤ山脈の麓であるシムラーに夏の政庁を移したものをなぞらえたものと思われます。 

このように、箱根温泉に湯治に訪れる外国人は幕末から明治初期にかけて若干見出せますが、箱根温泉に多くの外国人が訪れるようになるのは明治10年代から20年代のこと。これは外国人の国内旅行が明治6(1874)年に「研究・養生のため」という条件付きで許可され、明治11(1879)年には政府で働くお雇い外国人の国内旅行が大幅に緩和された事によります。 

更に、お雇い外国人の医学者・ベルツによって温泉を活かした療養や健康法が提唱された事で、以前より温泉地であった宮ノ下への来訪者が飛躍的に増えます。ここを起点に芦ノ湖や芦之湯を訪れる来訪者も増加しました。 

宮ノ下には9軒の湯治宿が存在し、外国人宿泊客は騎馬や駕籠のほか、「チェア」という担ぎ棒を付けた椅子も外国人向けに発案され、これらで避暑に訪れました。 

主に宮之下の奈良屋と藤屋(後の富士屋ホテル)、芦之湯の松坂屋などに滞在する外国人が多かったようです。中でも、松坂屋に残る明治年間の「外国人投宿客名簿」を見てみると、明治15年における外国人宿泊客数の国別では、イギリス、アメリカ、ロシア、清国、イタリア、ドイツ、フランスなど。月別では、8月・9月が半分以上と避暑目的であることが見られます。 

日本各地を旅行した貿易商・クロウは「横浜や東京の大多数の居留者とその家族は、景色がよくて健康的な土地柄に惹かれて、夏と秋には宮ノ下を訪れた。」と日記に記しています。  

増加する外国人宿泊客の取り込もうと、宮ノ下ではローマ字入りの箱根温泉案内図を発行したりしました。その中で、明治11(1878)年にそれまで温泉旅館しかなかった宮ノ下に、外国人専用を謳う洋式のホテルが日本で初めて創業しました。創設者の山口仙之助は、先年に火災で焼けてしまった旅館・藤屋を買い取り、日本の象徴である富士山の名を冠し「富士屋ホテル」と命名したのでした。

軽井沢への避暑が始まったのが明治19(1886)年で、今も営業している万平ホテルが開業したのが明治17年であるから、富士屋ホテルを中心とした宮ノ下は、早くから大量の外国人を世界中から魅きつけてきた国際的避暑地・観光地であったことを意味するものであります。 

明治17年9月21日、神奈川県を巡回視察していた中で箱根を訪れた神奈川県令(県令=現在の県知事)は、宮之下の奈良屋に宿泊した日記の中で、箱根温泉については「5月から8月の4ヶ月間で、日本人は533人に対し、外国人は234人」と述べています。 

宮ノ下に明治・大正期の建物が多く残り、ノスタルジックな雰囲気を醸し出しているのは、訪れる外国人観光客に向けたものだったのです。 

湯本、塔之沢、宮ノ下を結ぶ交通量が増えたため、明治20(1887)年に東海道の裏街道として使われていた塔之沢-宮之下間の七湯道(現国道1号線)の道幅の拡張を行い、人力車や馬車も通れるような道になりました。 

また、明治20(1887)年に東海道線が国府津駅まで開通し、翌年に小田原馬車鉄道が設立されると、国府津駅から箱根湯本へのアクセスが向上します。

その後、明治29(1896)年には馬車鉄道から電化されて小田原電気鉄道となり、大正時代に入ると、箱根登山鉄道が湯本から強羅まで開通、ますます宮ノ下に集中するようになりました。

昭和9(1934)年に国立公園法が制定され、箱根地域は昭和11(1936)年に「富士箱根国立公園(現・富士箱根伊豆国立公園)」として指定されました。国立公園は自然環境の保護、日本国民の休養だけでなく、当初は訪日外国人の利用を目的に作られた法律でした。 

当時は昭和恐慌と呼ばれた深刻な景気悪化の時代。外貨をもたらす外国人観光客の積極的な誘致が図られたからです。なんとなく、今の観光政策にも繋がる点があります。 

こうして箱根は温泉地として広く知られるようになりました。宿泊した外国人たちは、その山々の風景や清涼な空気など、豊かな自然環境を海外のリゾートに例え、「日本で最高のホテルの1つ」、「風呂は旅館の特別の呼び物」と日記に記し、外国人たちはその被写体として温泉場や芦ノ湖、大涌谷など箱根各地の様々な風景が数多く撮影され、その写真は土産物として世界中に広がることで、箱根の風景を世界に広めるメディアとしての役割も果たしました。 

海外の有名リゾートに並ぶほどに、景観、ホスピタリティ共に高く評価された事は、箱根が持っていた潜在的な観光力の高さの現れと言えます。その流れは現在にも続き、国際観光地として栄えていったのです。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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