トップ日本初の『旅館』萬翠楼・福住【コラム vol.4】

2023.12.27

日本初の『旅館』萬翠楼・福住【コラム vol.4】

フォレストアドベンチャー・箱根

第三回のコラムでは福住正兄について取り上げました。今回は、そのコラム中でも取り上げた福住が建てた「萬翠楼」に焦点を当てます。

箱根湯本駅から国道1号線を西へ歩いていくと、早川沿いに「旭日橋跡」という案内板があります。この案内板にある旭日橋は、明治18年に架けられた箱根初の洋風の吊り橋で、この橋は対岸にある箱根で初めての洋風旅館・萬翠楼、金泉楼に行くための橋であり、湯本温泉への入り口でもありました。

萬翠楼・福住は、その創業を遡ると寛永2(1625)年という箱根屈指の老舗宿です。福住家は代々箱根湯本で宿を営み、また湯本村の名主も務める旧家でした。

今でこそ数多くの旅館が立ち並ぶ箱根湯本ですが、江戸時代は東海道の宿場ではなかったので宿屋はほとんどありませんでした。源泉が一つしかなかった湯本では、宿泊客は共同浴場を利用するのが一般的でしたが、福住の旅館は建物内に浴槽を設けて入浴する内湯を備える高級な宿でした。箱根かごかき唄には「晩の泊まりは箱根か三島 ただし湯本の福住か」と唄われています。

現在も営業している「萬翠楼」と「金泉楼」二棟は、伝統的な日本建築である数寄屋造りの内装に、外観は箱根初の西洋建築の要素を取り入れた擬洋風建築として明治12(1879)年に建てられました。この時、日本で初めて「旅館」と名乗ったと言われています。

明治新政府の要人らを迎えるためにと建てられた事から、徳川慶喜、西郷隆盛、木戸孝允、山内容堂、井上馨、松方正義、福澤諭吉ら幕末期から明治にかけて活躍した多くの人々が訪れました。

1階フロントには「萬翠楼」の名付け親・木戸孝允による「萬翠楼」の書や、建設往時の様子が描かれた絵画が掲げられています。

ロビー横の書架には完成した当時の「萬翠樓」と「金泉樓」の資料やレトロな電話機を展示。「電話二番」は箱根湯本で2番目に電話に加入した証です。

「金泉樓」はロビーのフロント正面に入り口があります。入り口は蔵の様な扉が付いてあり、石造りの洋館の様な重厚な佇まいとなっています。外観や構造が西洋の蔵のような造りであり、内装は和風の設えには、当時の職人の試みが感じられます。外壁には湯本で採れた「白石」を使用しており、今もその一部が遺されています。

「萬翠樓」の一階すべてが特別な一室である15号室。4室で構成された三十畳の和室で、早川と庭に面しています。十畳の本間には花鳥風月を中心に48枚の天井画が描かれ、床の間に飾られた掛け軸は日本初の総理大臣・伊藤博文の直筆。また、生えているかのような山桜の原木が柱に用いられており、自然な木の形に合わせた襖、繊細な障子の格子は見る位置によって模様が変わって見える騙し絵のような細工、全開する上に好きな位置で止めることのできる造り窓など、様々な所に細工が施され、明治時代の建具職人の技を感じられます。屋久杉や紫檀といった、今では手に入らないような貴重な材が用いられている所も必見です。

元々、電気の明かりが無い時代の建築のため、室内は自然光で美しく見えるように造られており、電気を消すと金箔はより映え、格子はより陰影を増し、美しさが映えるなど、建造当時の趣を楽しむことができます。古くは明治時代の政府要人たちが滞在しました。

自然湧出の温泉もまた魅力。湯本でも希少な自噴式の自家源泉を単独管理しており、涌出量は毎分100リットルを超えます。透明度が高い湯は、肌がなめらかになるアルカリ性単純泉。源泉の温度が42度のため、自然のまま湯船へ流れるお湯をかけ流しで楽しめ、「真綿にくるまれる心地よさ」と謳われます。

風呂があるお部屋もありますが、大浴場の「一円の湯」は、福住正兄が師事した二宮尊徳の思想である「一円融合」からの命名。その名の通り、円く広々とした開放感は古代ローマの公衆浴場の趣があります。

「萬翆楼」「金泉楼」の2棟は現存する希少な擬洋風建築として神奈川県から「かながわの建築物100選」に選ばれ、2002年に現役で営業する旅館としては初の国指定重要文化財となりました。

各地の旅館の中にはもっと古い建物に泊まれる所や、豪華な旅館もあります。しかし、多くの歴史上の人物との関わりを持つ、存在自体が文化財とも言える旅館は日本の中でも稀有な存在だと思います。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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