トップ早雲寺【コラム vol.2】

2023.11.24

早雲寺【コラム vol.2】

フォレストアドベンチャー・箱根

箱根湯本駅東側にある国道1号線の三枚橋交差点より、畑宿方面へ向かい、右手にある箱根町立湯本小学校に隣接するのが早雲寺です。

戦国時代の関東地方に勢力を誇った小田原北条氏の祖で、後に北条早雲と呼ばれた伊勢宗瑞(そうずい)の菩提寺として、二代目の氏綱が大永元年(1521)に京都・大徳寺の僧である以天宗清(いてんそうせい)を招いて創建しました。

伊勢宗瑞はかつて素性の分からない人物とされていましたが、近年の研究で室町幕府の政治にも関わる伊勢氏の出身で、若い時は伊勢盛時と名乗り、京都の大徳寺で学んだと伝わります。
その後は足利将軍に仕え、足利一族である駿河の今川氏の客将から伊豆・相模へと勢力を拡大して、小田原北条氏の基礎を固めます。
盛時が出家して早雲庵宗瑞と名乗ったのは、大徳寺に居た一休さんこと一休宗純が名乗った狂雲という号名と関わりがあるのかもしれません。
一休は「近頃の僧は経ではなく兵法書を読んでいる。」と述べた様ですが、兵法書を読んでいたのは若き日の早雲かもしれません。


その後は北条氏累代の菩提寺として、関東における北条氏の隆盛に伴って、関東屈指の臨済禅の道場として箱根湯本のほぼ全域を寺域とし、箱根湯本は早雲寺の門前町として始まったと伝わります。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、秀吉は早雲寺を陣所とし、石垣山城が完成すると、早雲寺は焼き払われました。攻撃している相手である北条氏にとって重要な寺を、攻撃方の陣所にした上で焼くという、精神的な攻撃とも言えます。
戦国大名としての北条氏が滅亡したことで早雲寺は荒れ果てますが、寛永4年(1627)に北条氏の子孫が復興させました。

それでは、境内に入ってみましょう。
惣門に掲げられている「金湯山」という扁額は、寛永20年(1643)朝鮮通信使として来日した雪峰の揮毫によるものです。その惣門をくぐると深い緑が苔むした参道の先にある本堂には、室町時代末期の水墨画家・雪村により描かれた多くの襖絵があり、国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画が伝わります。
庭園は北条氏の中で最も教養あふれる人物として名高い早雲の三男・北条幻庵の作庭と伝わります。
これらは普段非公開です。

早雲寺裏手の林には、箱根町指定の天然記念物であるヒメハルゼミの生息域で、神奈川県では当地しか生息しないという非常に希少な自然林です。夏になると、一風変わった鳴き声が響き渡ります。
境内には小田原北条氏五代の墓があるほか、室町時代の連歌師・飯尾宗祇、茶人の山上宗二、徳川将軍家の医師・曲直瀬(まなせ)玄鑑、幕末から明治にかけて箱根の近代化に尽力した福住正兄(まさえ)らの墓所、旧徳川幕府軍遊撃隊士の人見勝太郎が建てた遊撃隊の顕彰碑と遊撃隊士の墓があります。

「天下の険」と呼ばれた箱根を行き交う、室町時代から江戸時代の人々の街道文化に大きく関わる寺であります。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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