トップ箱根の交通事情 ⑥小田急とロマンスカー【コラム vol.13】

2024.7.17

箱根の交通事情 ⑥小田急とロマンスカー【コラム vol.13】

フォレストアドベンチャー・箱根

新宿と箱根湯本を最短75分で結ぶ特急列車「ロマンスカー」。全席指定で、大きな窓から丹沢の山々や富士山、田園風景などをのんびりと眺めながら、旅の大切な一部である移動時間も楽しく快適に箱根に向かう事が出来ます。 

箱根を訪れるお客さまは年間1千万人。その約6割をマイカー利用者が占めている中、ロマンスカーの乗客数は年間約250万人とマイカー利用者の半分以下にも関らず、「箱根へはロマンスカーで」というイメージは強いものがあります。 それは、ロマンスカーを運行してきた小田急電鉄(以下、小田急)が築き上げてきた鉄道と観光地が一体となったブランディングによるものと言えます。 

一方、小田急は東京圏の通勤路線としての性格もあります。若者の街として著名な下北沢、沿線有数の高級住宅街を擁する成城、大規模な住宅地および多摩地域有数の大規模繁華街を擁する町田、江ノ島線との交点であり運行の要所である相模大野、ベッドタウンとして発展している海老名市、県央地域最大の物流・産業拠点で厚木都市圏を形成している厚木市、登山者が多い大山・丹沢のある伊勢原市・秦野市や、海に面する歴史に満ちた城下町小田原を結んでいます。 

今回は首都圏近郊の生活の足から、箱根への旅を彩る小田急電鉄とロマンスカーの誕生に至るまでを取り上げます。 

小田急のあゆみについては、創業者である利光鶴松(としみつつるまつ)について触れなくてはなりません。 

利光鶴松は文久3(1863)年12月31日、現在の大分県大分市の農家に生まれ、農家の傍ら独学で勉強して上京し、明治法律学校(現・明治大学)に入学しました。23歳の時に弁護士となり、政治家の星亨と一緒に政治活動をしていて、時には首相である伊藤博文を相手に、椅子を蹴飛ばしたり灰皿を投げたりする豪快な一面もあり、また、自らも32歳の時には東京市議会議員に立候補して当選し39歳まで務めました。

利光は東京市議会議員の時に東京市内の路面電車の問題などを手掛けた際、交通インフラの整備が重要であると確信し、実業界に転身して東京市街鉄道(現・東京メトロ)、京成電気軌道(現・京成電鉄)などの創立に加わったのをはじめ、発電会社の鬼怒川水力電気を興すなど、企業家として活躍します。 

当時、東京市内の交通は路面電車が市民の中心的交通機関でしたが、その拡大する需要に追いつけず「いつまで待ってても来ない」と市民の反感を買う状態でした。輸送力を大きくするにしても、路面電車では速度も遅く限界があります。そこで次の交通機関として登場するのが、まだ日本には無かった地下鉄道計画です。 

大正8(1919)年、利光は東京の地下鉄を造ろうと東京高速鉄道を設立、新宿から日比谷を経て大塚に至る総延長32キロの地下鉄計画で、地下を掘削した土砂で皇居の外濠を埋立て、半分を市に提供して公共用地とし、残りを宅地として売り出そうという一石二鳥の案を立てました。しかしこの案は皇室に対して不敬であると、内務省の反対で頓挫します。 

しかも、大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災で東京の中心部は壊滅、地下鉄の建設どころではなくなりますが、人々が東京の中心部から郊外へと移り住む流れを見て取ります。当時、神奈川県の鉄道は、明治時代にまず東海道線と横須賀線、明治末期に横浜線の前身の横浜鉄道ができ、中央線ももう出来ていますが、県の中央部が交通空白域でした。利光は当時郊外の駅であった新宿を起点に、小田原までの鉄道の建設を目指し、東京高速鉄道は社名を小田原急行鉄道株式会社と改めます。 

当初、起点は平河町五丁目(その後、新宿三丁目に変更)で原宿、渋谷、三軒茶屋、砧からは大体現状と同じで、町田から小田原に至るものでした。当時は現在の国府津駅からの御殿場線が東海道本線で、鉄道の接続だけ考えるなら東海道線に繋ぐだけで良い所、あえて小田原まで延ばしたのは、その先の箱根や伊豆の温泉地への観光需要を見据えていたものでした。 

大正14(1925)年に行なわれた起工式で、利光は全線82kmを1年半で開通させると宣言、この82kmの間には、多摩川、相模川、酒匂川という大河川に鉄橋を建設し、4箇所のトンネルを掘削するという大工事も含まれ、この工事だけでも大変な事なのに、これだけの長い距離を着工後わずか1年半で開通させるという例は我が国の鉄道史でも例の無い事でした。 

しかし、困難が立ち塞がれば奮起し、無理を承知で実行しようというのが利光のやり方であったそうです。 

全線82kmを1年半で開通させるという事で、必要な資材の調達も大変で、日本全国から資材を集め、それでも足りない場合は外国から輸入するなど四方八方手を尽くして調達します。車輌は30輌を車輌製造会社に発注し、また、乗務員や駅員の教育も進め、運転士は既に開通していた他の鉄道で実習を受け、開通に備えたそうです。 

そして、請負の建設会社を含め全社一丸となって開通に向けて突き進んだ結果、起工式から1年半後の開通予定日の前日の夕刻、鉄道省から開業許可が下り、約束通り昭和2(1927)年4月1日に開通させることができたのです。 

開通時の電車は他の私鉄ではまだ木造車が多かった中、全部半鋼製車で揃えました。新宿~小田原間の直通電車が45分間隔で所要時間2時間23分、運賃は新宿から小田原まで136銭(現在の2,000円前後)でした。 

長い間交通機関に恵まれなかった沿線の人たちは、開通日に沿線各地では祝賀会を開き、凧を揚げたり花火を打上げたりの大騒ぎで開通を祝い喜んだといいます。 

しかし、開通はしたものの、京王電気軌道や玉川電気鉄道(渋谷~二子玉川)のように主要街道に沿って走る鉄道と違い、小田原急行鉄道は道なき道を進む鉄道、利用客より駅員の数の方が多い駅が目立ち、沿線の人々でさえ客の少なさを我が身のことのように心配していたといいます。 

昭和4年公開の映画『東京行進曲』の同名主題歌の4番には、「♪シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか」と、「人目を忍ぶ恋をする二人が、小田急に乗って駆け落ちする」というイメージで歌われたのも、当時の小田急が無人の野を行くというイメージからです。当時、小田急は小田原急行鉄道というのが正式名称だったため、重役がレコード会社に、「名前を省略されたうえ、駆け落ち電車にされた」と怒鳴り込んできた、というエピソードもあるそうですが…

開通時は全線82kmのうち神奈川県内の52kmは単線でしたが、開通の半年後には全線複線となりました。これを機に新宿~小田原間に急行列車を新設して1時間間隔で運転し、新宿~小田原間は急行列車で1時間45分となり、文字どおりの小田原急行となりました。電車の運行本数の増加、急行電車の運行開始と相まって乗客は次第に増加していきました。この結果、年5%の株式配当を支給するまで業績は向上しました。 

ところが、開通から2年後の昭和4(1929)年にニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとした世界金融恐慌が始まり、それが日本にも波及して大不況となり、鉄道業界にも打撃となりました。 

この難局に対し、小田原急行鉄道も経費節減のため、株主への配当金を5年間無配とし、従業員の昇給も停止されました。 

経費節減だけでなく、会社は沿線の開発をはじめ積極的に各種の増収対策を講じました。沿線人口を増やそうと沿線に住宅地を次々と開発しました。更に箱根の遊覧コースの開発による行楽客の誘致、昭和4年4月には江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島間)を認可から1年余りという短期間で開業、新宿方面からの夏の海水浴客を沢山運びました。この列車の車内では、沿線案内をレコードで流し、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流して旅行気分を高めました。龍宮城を象った片瀬江ノ島駅は話題になりました。 

利光は昭和3(1928)年8月の段階で箱根湯本までの路線を計画、箱根の地元住民もそれを支持して誘致していました。結果的には小田原電気鉄道が12月に免許を受けたので、小田急は取り止めましたが、昭和10(1935)年6月に、 新宿〜小田原間ノンストップの「週末温泉特急」を開始した。これが後にロマンスカーへと繋がります。

また、昭和元(1925)年に経堂に陸軍自動車学校が開設されたのをはじめ、昭和12(1937)年頃から相模原~座間のあたりに陸軍士官学校など多くの軍事施設が続々と建設され、利用客は増えていきました。これらの軍事施設は東海道線が戦争の爆撃を被った場合に小田原急行鉄道を代替路線として利用しようという考えに基づいたものであったようです。 

乗客の増加を図ると共に貨物輸送にも進出し、当時都心で活発になっていたビルの建設のために、貨物列車で多摩川や相模川の河原の砂利を東北沢の貯蔵場まで輸送しました。 

かつて純農村であった東京の世田谷から、神奈川県の伊勢原、秦野にかけての風景は小田急線ができた事で、目覚ましく姿を変えていきました。 

その後、戦争の長期化に伴い、陸上交通事業の統制や電力の国家管理が進められる中で、昭和15(1940)年5月には傍系の帝都電鉄(現・京王電鉄井の頭線)を合併、翌昭和16年3月には親会社の鬼怒川水力電気(株)と合併の上、小田急電鉄(株)と改称しました。 

更に、戦局の悪化に伴い、国策として私鉄の大合併が主導され、利光は高齢である事を理由に東京急行電鉄の五島慶太に小田急電鉄の社長の座を譲り、小田急電鉄社長等、全ての役職より引退しました。 

昭和17(1942)年5月には京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)、昭和19(1944)年5月には京王電気軌道(現・京王電鉄)と共に東京横浜電鉄(現・東急)に合併となり、東京西南部の私鉄が統合されました。 

その最中の昭和20(1945)年7月4日、利光鶴松は世田谷区喜多見の自宅で亡くなりました。81歳でした。 

 戦後、昭和23(1948)年6月に東急から分離独立し、新生小田急電鉄(株)として発足しました。小田急としては従業員の士気を高める目的と、一般の人にも箱根を看板にして「小田急」の名前をPRしようと、昭和23年10月に戦時下には運転を中止していた小田原への特急車両の再開を図ります。 

独立して間もない頃、客車は100両弱しかなく、中には使い物にならない車両もありました。もちろん特急車など無いため、一般車の中で程度のいい1600形という車を特急に指定しました。朝の通勤通学ラッシュに使った車両を、すぐに経堂の車庫で清掃して、シートに白いシーツをかぶせて、午後、箱根ノンストップ特急として走らせました。日曜日には朝の9時ごろに出したと言います。

当時は車両の新造は許可制でしたが、割当られた10両のうち、6両は3つ扉の一般車、4両は2つ扉でセミクロスシートの車にして、それを箱根特急にしました。これは初めから特急用で造った車両である事から評判が良く、翌年に続いてもう1編成つくり、これで箱根特急が一般に定着しました。これも朝のラッシュには通勤輸送に使いましたが、黄色と青に塗り分けた車体で一層人目を引きました。 

ちょうどその頃、新宿の映画館に2人掛けのロマンスシートという席があり、それがロマンスカーと命名される由来となります。 

昭和24(1949)年8月20日より、ロマンスカーの車内で「走る喫茶室」と銘打った紅茶と軽食を提供するサービスが開始されました。戦後復興の最中で都市部でも喫茶店は少なく、喫茶店と同様のサービスが列車の中で提供される事が、食堂車と違う斬新さで人気となりました。 

昭和25(1950)年8月には、箱根登山線への乗り入れを実現、独立の際、東急の子会社であった箱根登山鉄道が傘下に加わったのも功を奏しました。箱根に進出してきた西武グループと観光開発などの熾烈な競争を行なった事は前回までのコラムでも取り上げました。そこから、箱根の周遊ルート「箱根ゴールデンコース」が構築(1960年9月)され、観光輸送の営業基盤を強固なものとしました。

更に、1957(昭和32)年6月には新開発の特急車両3000形を就役させます。この3000形は “Super Express car” 、略して「SE車」と呼ばれる車両で、数多くの新機軸が盛り込まれました。 

軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された低重心・超軽量の流線形車両は、「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり、鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めました。 

同年7月6日よりSE車の営業運行が開始されましたが、すぐに夏休みに入ったこともあって、連日満席となる好成績となり、営業的にも成功し、小田急の存在感を一気に高めました。 

同年9月27日に行なわれた高速走行実験では、当時の狭軌世界最高速度である145km/hを樹立し、新幹線の開発モデルにもなりました。この車両を導入することで、小田急のイメージは非常に高いものとなります。その後、ロマンスカーは優れた私鉄特急として、名声を保ち続けています。 

小田急は箱根や江ノ島といった観光地が目的地として存在する、都心へ向かうだけではない需要もあり、都市鉄道と観光輸送を両立させているという特性を生かした企業活動を行なっています。 

小田急のロマンスカーで箱根へ行き、小田急のホテルに泊まって、箱根登山など小田急傘下の乗り物を使って観光するというイメージづくりに成功し、戦前から培ってきた鉄道を中心とする複合ビジネス企業としてのノウハウを生かし、沿線を更に発展させたのです。 

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)

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