2024.6.23
箱根の交通事情 ⑤箱根ロープウェイ【コラム vol.12】
フォレストアドベンチャー・箱根
箱根を代表する観光スポットである大涌谷、大涌谷は箱根を訪れるお客様の多くが訪れる観光スポットです。緑に包まれる箱根の静かな山々の中、ここだけが荒涼な大地になり、しかも白煙が立ち込めていて地獄さながらです。この光景は、約3000年前の箱根火山の爆発によって生まれた火口の跡として生まれたものです。辺りに立ち込める白煙は、硫黄分を含んだガスと水蒸気によるもの、近づくと、火山ガスの独特な臭いが鼻を突きます。箱根が火山である事の証明といえます。
この凄まじく壮観な景色は人の心を震わせます。「大涌谷」は、江戸時代以前はその様子から「大地獄」と呼ばれていましたが、明治6(1873)年の天皇訪問を前に、「大涌谷」と改称されたとの事。最近では、箱根火山の成り立ちが分かるジオスポットとして、そして地球のパワーを感じる「パワースポット」とPRされ、「かながわの景勝50選」にも選ばれました。
この大涌谷を一気に飛び越え、真上から見ることが出来るのが箱根ロープウェイです。

箱根ロープウェイは、全長約4km、箱根町の早雲山駅と桃源台駅を結ぶ、日本一長い路線を誇るロープウェイです。約45分間の空中散歩が楽しめます。

箱根湯本駅から箱根登山鉄道で強羅、箱根登山ケーブルカーで早雲山へ、箱根ロープウェイで大涌谷を経由し、芦ノ湖の桃源台からは箱根観光船、元箱根からは箱根登山バスと様々な交通機関を利用しながら箱根を反時計回りに観光していくルートは小田急グループによる「箱根ゴールデンコース」と呼ばれ、今ではそのゴールデンコース1日乗り放題の「箱根フリーパス」が様々な特典が付いておトクです。

小田急グループは箱根ロープウェイを通したことで、広範囲に広がる箱根を一周しながら観光できるゴールデンコースを完成させる事が出来ました。
そんな箱根ロープウェイが建設されたのは、先のコラムでも一部ご紹介した、10年超に亘る東急グループと西武グループによる壮絶な箱根の観光客獲得競争である「箱根山戦争」によるものでした。今回は、この辺りをご紹介します。
1950年代、戦後復興に伴い箱根に大挙して観光客が押し寄せていた中、東急グループの箱根登山鉄道は箱根の東側、一方、西武グループの駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)は西側の芦ノ湖周辺に縄張りを持っていました。2つの巨大企業を後ろ盾にした運輸会社は、箱根の観光客を獲得すべく、交通網を広げていきます。それはやがて、熾烈な抗争へと発展していく前触れでした。
昭和22(1947)年当時、駿豆鉄道では小涌谷と元箱根を結ぶ路線バスを運行していましたが、同年9月にこの路線を小田原まで延長したいという申請を行いました。これは通勤通学の利便性向上と共に、昭和16(1941)年に駿豆鉄道と合併した大雄山鉄道(現伊豆箱根鉄道大雄山線)との一貫輸送を図るという目的でありました。
これに対し、当時東急の傘下にあった箱根登山鉄道は強く反対します。この延長区間は元々箱根登山鉄道バスが運行されていた区間であり、小田原と元箱根を結ぶ区間は同社にとって、とりわけ重要な路線であったからです。しかし、当時の箱根登山鉄道では戦時中に休止されていたケーブルカーの再開や台風被害の復旧に注力していたため、バス路線の整備が遅れていました。こうした状況から、地元では駿豆鉄道バスの乗り入れには賛成する意見も多くありました。その為、運輸省では運行便数の制限などを設定した上で路線免許を交付しました。
駿豆鉄道バスの運行が認められた事を知った箱根登山鉄道は、昭和25(1950)年3月に駿豆鉄道の運営する自動車専用道路の早雲山線に乗り入れ、小涌谷から早雲山を経て湖尻に至るバス運行の免許申請を行います。この路線を運行することによって、自社の路線のみで観光客を芦ノ湖まで輸送し、自社の交通網で完結する周遊ルートを構築しようと図りました。
これに対して今度は駿豆鉄道が反対、駿豆鉄道は自社の道路に箱根登山鉄道のバスが通るのを拒んだ形です。
西武の堤康次郎氏は 、
「当時の金額で400万円も投資して、13年もかけて建設した道路、ようやく黒字になったと思ったら、免許書一本で権利を半分取られてしまうのは無理無体。」
と述べました。

これに対し、小田急社長の安藤楢六氏は 、
「自社(駿豆鉄道)の運営する一般自動車道でありながら、私有専用道路であるが如き主張をする。」
と反発しました。
この争いに対して運輸省は、箱根登山鉄道と駿豆鉄道の間で乗り入れ協定を結ぶよう勧告、このような経過を経て、昭和25(1950)年3月20日から駿豆鉄道バスが小田原に乗り入れを開始、同年7月1日からは箱根登山鉄道バスが自動車専用道路への乗り入れを開始しました。
ちょうど同じ頃、箱根町の旅館経営者らが、新たに芦ノ湖を遊覧船運行会社の設立を計画、箱根登山鉄道はこれに着目し、小田急側の資本援助によって、昭和25(1950)年3月10日に箱根観光船が設立されました。それまで湖上交通を独占していた駿豆鉄道はこれに反対しますが、監督官庁では駿豆鉄道との間で営業協定を結ぶ事を要求し、当初は反対していた駿豆鉄道も承諾しました。こうして同年8月1日より、箱根観光船によって湖尻桃源台と箱根町を結ぶ航路の運航が開始され、駿豆鉄道による湖上交通の独占は破られることとなりました。
昭和27(1952)年6月、駿豆鉄道バスの運行に対して課せられていた運行制限が撤廃され、駿豆鉄道のバスは便数や停車地の制限なく小田原発着のバスを運行する事が出来るようになった。
これと同時に、運輸省では箱根登山鉄道に対して、駿豆鉄道の保有する自動車専用道路早雲山線への乗り入れ協定を路線免許に切り替える方針を示し、箱根登山鉄道は同年7月21日に路線免許の申請を行いました。これは箱根観光船が導入した大型船の運航を開始する事に合わせたものでありました。

これに対して、駿豆鉄道は
「新しい船の建造を自粛するという覚書の内容に反する。」
として、湖上交通を所管する関東海運局に反対陳情をしました。これが受け入れられないと知った駿豆鉄道は関東海運局を相手取り、横浜地方裁判所に箱根観光船の新船建造許可を取り消すことを求めて訴訟を起こしました。それと同時に、箱根登山鉄道に対しては昭和31(1956)年3月10日に自動車専用道路への乗り入れ協定の破棄を通告しました。
これを受けた箱根登山鉄道では、同年5月2日に、乗り入れ協定の破棄は無効であるとして横浜地方裁判所小田原支部に訴訟を起こしました。
駿豆鉄道もまた、
「駿豆鉄道の船が発着する湖尻を箱根登山鉄道バスが通過し、箱根観光船の発着する湖尻桃源台まで運航したため損害を蒙った。」として、箱根登山鉄道を相手取って賠償を求める訴訟を起こす泥試合の様相を見せ始めました。
しかも、乗り入れ協定が切れた昭和31(1956)年7月1日、駿豆鉄道は自動車専用道路の入口に遮断機を設置、箱根登山鉄道の運行を物理的に阻止する行動に出たのでした。
昭和33(1958)年、自動車専用道路早雲山線への乗り入れ問題訴訟に敗れた小田急側では、バスに代わる輸送手段として早雲山から湖尻桃源台までを結ぶロープウェイの建設を決断しました。陸がダメなら空からという苦肉の策でした。このロープウェイの構想自体は、既に昭和6(1931)年に箱根登山鉄道が計画していたものでしたが、この長引く争いを終結に導くための切り札として具体化したのでした。
しかし、このロープウェイの路線上には伊豆箱根鉄道(昭和32年に駿豆鉄道から社名変更)の専用自動車道があり、建設にあたっては伊豆箱根鉄道の同意が必要でした。
小田急側からロープウェイ建設の申し出を受けた伊豆箱根鉄道の社内では反対意見が多かったが、堤氏は「大乗的見地から土地使用料は無料で承認する」として、このロープウェイの上空通過を認めました。
これを受けて昭和34(1959)年4月に箱根ロープウエイが設立され、急ピッチで工事が進められることになり、同年12月6日から早雲山と大涌谷の間でロープウェイの運行が開始され、翌昭和35(1960)年9月7日には大涌谷と湖尻桃源台の間も開通しました。これによって、小田急は自社グループの交通機関のみで芦ノ湖への交通手段を確保する事が出来るようになりました。

バス路線を巡る争いに端を発し、10年以上も続いた箱根山戦争は、この箱根ロープウェイによって決着をつけたのでした。 箱根登山鉄道の社史は「当社創立以来最大級の出来事」として19ページにわたり対立の経緯を取り上げています。
箱根ロープウェイの優雅な空の旅のひと時には、当時の鉄道業界の頂点に君臨していた二つの巨大グループが知略を絞り、様々な関係者をも巻き込み、ロープウェイの眼下に見える大涌谷のマグマのような膨大なエネルギーを費やしてまで喧嘩のようにぶつかり合った、その結晶とも言えるのです。
文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)