2024.6.7
箱根の交通事情 ④芦ノ湖の遊覧船【コラム vol.11】
フォレストアドベンチャー・箱根
北西に富士山、東に駒ヶ岳を臨み、その姿を湖面に映す芦ノ湖。箱根火山のカルデラ湖である芦ノ湖は、海抜724mに位置し、南北に7km、周囲は20kmあり、四季折々の自然の美しさと、釣りや遊覧船などのレイクレジャーが楽しめ、箱根を印象付ける風景です。
芦ノ湖は湖の南に位置する関所跡港周辺には、江戸時代の関所を再現した「箱根関所」、お食事とショッピングのできる「箱根関所旅物語館」などがあります。元箱根港周辺には、山岳信仰の聖地として古くから多くの崇敬を集める「箱根神社」や、現代日本画の名作を展示している「成川美術館」、また元箱根から箱根町へは杉並木の遊歩道があります。芦ノ湖の真ん中に位置する箱根園港周辺には、ザ・プリンス箱根芦ノ湖、駒ヶ岳ロープウェー、また箱根園水族館など、見どころ豊富なレジャースポット「箱根園」があります。
湖面に富士山を映した水面をゆっくりと巡る船旅は箱根観光のハイライトとも言えます。そして、芦ノ湖には「芦ノ湖遊覧船」と「箱根海賊船」の2種類の観光船が運航しています。
芦ノ湖を巡る水上観光に先鞭を付けた芦ノ湖遊覧船は、現在「十国丸」、「あしのこ丸」、そして2024年2月に「はこね丸」をリニューアル就航した「SORAKAZE」の三隻の双胴船があります。双胴船は2つの胴体で支えているため、優れた安定性と船体2隻分の広さを持ち、700名が乗船できます。
特に展望デッキは視界360度で、箱根の山々や富士山も眺める事ができ、「湖上を走る展望台」と言えます。また、箱根九頭龍の森に鎮座する芦ノ湖の守護神、九頭龍神社・本宮の『月次祭』の毎月13日には「九頭龍神社参拝船」も運航されています。
そして、ちょうど60年前の1964年7月に就航した箱根海賊船は、ヨーロッパの帆船を模した特徴ある船体で、一見すると箱根の風景とはミスマッチな船体と言えますが、今もスタート時と変わらずに子どもたちの人気を集めています。
現在「クイーン芦ノ湖」、「ロワイヤルⅡ」、「ビクトリー」の三隻が就航しており、「クイーン芦ノ湖」は芦ノ湖の碧にあざやかに映えるゴールドの船体でクラシックなデザイン、「ロワイヤルⅡ」は18世紀のフランス海軍様式、「ビクトリー」は18世紀のイギリス海軍様式と、船ごとで個性が分かれているのが特徴です。いずれも500名近くが乗船でき、船内は3Dアートや、大砲や宝箱といった海賊のオブジェが置かれ、お子様から大人まで楽しめる空間です。そして追加料金を支払うことで利用できる特別船室が設けられており、上質な時間を過ごせます。
桃源台港から箱根町港・元箱根港を約25〜40分で結び、次の元箱根港までは約10分、桃源台港までは約25分の優雅なクルーズを色鮮やかな海賊船で楽しめます。
箱根海賊船と芦ノ湖遊覧船とは微妙に離れた位置に港を設置しているのが特徴です。芦ノ湖遊覧船の「湖尻」に対し、箱根海賊船は「桃源台」、芦ノ湖遊覧船が運営する「箱根関所港」の近所には箱根海賊船の「箱根町港」と港の名も変えており、「元箱根港」だけは同じ港名ですが、両観光船の乗場は300メートルほど離れています。今回は、これらの遊覧船が如何にして始まったかをご紹介していきます。
今でこそ箱根観光の代表的なアイコンとも言える遊覧船ですが、江戸時代には箱根に関所がある事から、旅人が舟で芦ノ湖を渡ることは禁止されていました。そのため、箱根関所の山側にある遠見番所から、足軽が2人1組となって、昼夜交替で芦ノ湖や街道沿いを交代で見張って監視をしていました。
芦ノ湖において定期航路が開設されたのは、明治42(1909)年頃とみられています。元箱根村では、ハコネダケという箱根特有の竹を用いた生活用具を作る家が多かったのですが、村会議員であった大場金太郎氏は仕入れと出荷を共同で行うべく「篠竹組合」を設立していました。
明治37(1904)年に小田原からの道路が芦ノ湖まで到達した事で、芦ノ湖を訪れ舟によって対岸へ渡ったり周遊したいという観光客が増えていました。このことから、大場は篠竹組合の利益金で各戸に舟を持つことを勧め、芦ノ湖の湖上遊覧を手掛けます。当初は全て手漕ぎ船による運航でありました。やがて、箱根渡船組合と箱根町渡船組合が芦ノ湖の航路を運航し、互いに観光客を奪い合っていました。
大正8(1919)年6月1日に小田原電気鉄道(当時)が湯本―強羅間に登山電車を開通させ、富士屋自働車が乗合自動車(路線バス)の運行を開始すると、芦ノ湖周辺にも多くの観光客が訪れるようになります。
ここに後の西武グループの創業者となる堤康次郎氏が箱根観光にビジネスチャンスを見出しました。堤は、イタリアやスイスなどの実例から、「風景が一国の有力な財源であり、この開発は埋没している鉱物を採掘するに等しい」と考え、日本においてその可能性のある地域が軽井沢と箱根であると認識していました。軽井沢と箱根の両者とも、別荘を持っていたのは一部の富裕層でしたが、堤はこれを一般民衆にまで広げることが重要であり、そこにビジネスチャンスがあると開発にのめり込んでいきます。
同年には強羅に10万坪の土地を買って開発に着手し、更に仙石原で70万坪、箱根町で100万坪もの芦ノ湖周辺の山林や原野を次々と買収していきました。
大正9(1920)年3月には箱根土地株式会社(後のコクド、2006年にプリンスホテルに吸収)を設立、資本金2千万円は当時としてはかなりの大企業でした。この会社が堤の事業の中心的な存在、西武グループの発祥とも言えます。
堤が著した箱根土地の設立趣意書には、
「大規模な設備、汽車自動車人車等の便により数時間で来られる事、風光明媚にして閑雅、地理的変化に鑑み長い滞在にも飽きない、各方面及び地域内の交通の便、四季の眺望、中和な気候、健康に適し病後保養にも効果があり、清涼豊潤な水と温泉、新鮮な山海の食料の供給、名所旧跡、以上の条件から箱根は絶対無二の良候補地である」
と、箱根大遊園地構想を示しました。
ここで掲げられている大遊園地とは現在の遊園地とは異なり、温泉と宿泊施設に加え、庭園、舟遊び、馬場、舞踏場、野球場、ビリヤード、水泳場など、さまざまなアミューズメント施設も併設する、幅広い面的なもので、幅広い層の観光客が楽しめる場所を造ろうとしました。
また、別荘分譲地を土地に建物を付けて売る「建売方式」を、別荘で初めて取り入れたのも箱根土地でした。ただ分譲するのではなく、未開発の土地に付加価値をつけるため、ガス・電気・水道の生活インフラを整え、道路の新設も同時に行っていました。
堤は「土地の開発と関連して重要なのは交通機関である」と述べ、土地の価値を高めるためにも交通機関の整備に気を配っていました。交通機関とは鉄道やバスだけでなく、それら複数の交通機関を有機的に結びつけ、道路整備などのインフラ整備も含めての考えでした。堤は観光客を観光地点へと繋げる交通機関を手にしようと考えます。
前述したように、この頃の芦ノ湖遊覧は、元箱根と箱根の渡船組合が実施していましたが、両者は客の奪い合いで激しく対立していました。堤はこの対立に着目し、大場と手を組む形で両組合を一本化した新会社を作ることを提案、かねて両者の対立に頭を痛めていた地元有力者の仲介を経て、同年4月1日、渡船業者を株主とした「箱根遊船株式会社」の設立へと持ち込みます。新会社には、社長に元箱根側の河島与右衛門、常務に大場金太郎が就任しました。
すると、堤傘下の箱根土地が箱根遊船を買収する形で、芦ノ湖上の観光船事業を独占する形になりました。これが、堤が箱根で最初に手がけた交通機関となりました。
大正10(1921)年12月1日に小田原電気鉄道鋼索線(現箱根登山ケーブルカー)が開業すると、早雲山まで登山電車とケーブルカーを乗り継ぎ、そこから徒歩で芦ノ湖まで歩いて、湖尻から元箱根まで船で渡る観光客が増加しました。このため、小田原電気鉄道と箱根遊船は提携して大正11(1922)年5月から「箱根廻遊切符」の発売を開始しました。
堤はその後、湯河原と箱根町を結ぶ鉄道や、強羅から仙石原を経て箱根町に至る電気鉄道の建設を出願しますが、いずれも着工に至らず、大正13(1924)年に静岡県の駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)を買収し、静岡県の三島や熱海から箱根へと繋げるバスの運行を始めます。
大正15(1926)年11月には飛行機による湖上遊覧営業を開始し、10分間10円(現在の約4万円)の空の旅でしたが、故障が多く数ヵ月で終了となった様です。
歌人の与謝野晶子は、箱根遊船が開業して8年後の昭和3(1928)年に箱根を訪れ、箱根湖尻港で次のような短歌を残しています。
湖尻(うみしり)の 船着場にて 柑子(こうじ)など あがなふを待つ 神山のもと
三つばかり 黄なるくだもの 手に持ちて 人の出でくる 船着きの小屋
(定本 與謝野晶子全集 第五巻 歌集五 より)
また昭和12(1937)年にも次のような短歌を詠んでいます。
白き霧 蘆の湖(うみ)より 幅ひろし 是れに惑ひて 船笛を吹く
(定本 與謝野晶子全集 第七巻 歌集七)
昭和13(1938)年4月、箱根遊船は堤傘下の駿豆鉄道と合併し、社名が駿豆鉄道箱根遊船(のちに駿豆鉄道に変更)となります。箱根遊船は単なる船舶会社ではなく、早雲山線(小涌谷ー大涌谷ー湖尻)、湖畔線(湖尻ー元箱根)自動車道の経営から乗合バスの営業も行う、箱根開発の交通部門を担った重要な会社となって行きます。
しかし、堤が大観光地構想を描いていた時代から一転、時代は戦争へと突き進み、戦時中の燃料統制や観光客の減少に伴って、遊覧船やバスもしばしば運行を休止するようになってしまいました。
戦争が終わり、再び観光の機運が高まると、箱根町で旅館を経営していた有力者を中心として、新たに遊覧船を運航する計画が立ち上がりました。箱根登山鉄道はこれに着目し、小田急側の資本援助によって、昭和25(1950)年3月、箱根観光船が設立されました。
それまで湖上交通を独占していた駿豆鉄道はこれに反対したものの、当局が駿豆鉄道との間で安全営業協定を結ぶことを要求し、駿豆鉄道もこれを承諾。
こうして同年8月1日より、箱根観光船によって「乙姫丸」が就航し、湖尻桃源台と箱根町を結ぶ航路の運航が開始され、駿豆鉄道による湖上交通の独占は破られる事となりました。
この頃になると、戦後復興による好景気から箱根は多くの観光客で賑わうようになっており、東急を後ろ盾とする小田急が箱根湯本までロマンスカーを乗り入れ、更に箱根登山鉄道を傘下に収めて強羅からケーブルカーを新設。芦ノ湖周辺を拠点とする堤の足元へと切り込んでいきます。昭和31(1956)年には、大型船「足柄丸」を就航させ、関東からの観光客を着々と取り込んでいきます。
駿豆鉄道ではこれに備えて、客船としては世界初という「双胴船」の導入を図ります。2つの船を横に並べ上部に船室を設けた形状で、船体の安定性が高く、なおかつ高速での操船も可能。広い甲板で富士山や湖畔の景色を満喫できるという優れた船でした。
昭和36(1961)年に日本で初めてとなる双胴船「くらかけ丸」の就航は世の中を驚かせました。
これに対し、箱根観光船では双胴船に対抗するためのアイデアを社内に募りますが、これといったプランは出てきません。起死回生を狙った山添直社長は、アメリカのディズニーランドを視察した際のアトラクションを見て「海賊船」のアイデアが浮かびます。
箱根は箱根神社、東海道の関所跡、温泉といった「和」の風情を基調としています。そこへ洋風の海賊船は如何なものかという意見が大半でした。それでも山添社長は根気よく社内を説得して海賊船導入の方向でまとめた。
こうして昭和39(1964)年7月、初代海賊船「パイオニア号」が就航しました。
約470トン、全長33.90m、型幅10.00m、型深さ2.75m、最高速力11ノット、旅客定員650人。狙い通り子どもたちの人気が圧倒的で、乗船申し込みが殺到して以前は3対7で劣勢だったのが6対4以上に巻き返すことが出来たそうです。こうして箱根海賊船は芦ノ湖の定番として知られるようになっていきました。
この箱根観光を巡る両者の争いは「箱根山戦争」とも呼ばれますが、それは別の機会にご紹介する事とします。
一見、優雅に見える芦ノ湖をめぐる湖上の戦いは、半世紀を経て新たな局面となりつつあります。
2018年4月には、芦ノ湖に初めて水陸両用バス「NINJA BUS / WATER SPIDER」が就航し、芦ノ湖周辺の陸路を30分、芦ノ湖水上の水路を15分、1周45分間かけて周遊し、水しぶきを上げながら勢いよく飛び込むアトラクション性や、忍者をイメージしたデザインは子どもたちや外国からのお客様にも人気です。
2022年10月3日、芦ノ湖遊覧船を運営していた伊豆箱根鉄道が、同遊覧船を山梨県を地盤とする富士急行に譲渡する事を発表し、富士急行は2023年3月から芦ノ湖遊覧船を箱根遊船と改名することを発表、創業当時の社名が復活したのでした。
前述した新船「SORAKAZE」の屋外デッキには、富士山型のベンチや天然芝を敷き詰めた広場を造るなど、富士急行が他のロケーションで展開するように、富士山の展望の良さを売りにする観光アプローチを仕掛けてくると思われます。
「箱根海賊船」と「芦ノ湖遊覧船」はどちらも芦ノ湖を周遊して楽しめます。芦ノ湖での船旅を楽しむだけなら、どちらを選んでも問題ありません。ただ、船の形式や発着する港の位置、切符の種類が異なります。箱根の観光プランによってどちらを選ぶべきかを考えて、芦ノ湖の船旅を楽しんでください。
文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)