フォレストアドベンチャー総合TOP箱根の交通事情 ②小田原電気鉄道【コラム vol.9】

2024.3.25

箱根の交通事情 ②小田原電気鉄道【コラム vol.9】

フォレストアドベンチャー・箱根

前回のコラムでご紹介した通り、小田原馬車鉄道から改称した小田原電気鉄道は、明治33(1900)年3月21日、神奈川県内で2番目、日本でも4番目の電気鉄道として開業を迎えました。
馬の維持費で経営が苦しかった小田原馬車鉄道は、明治23(1890)年に上野公園で開かれた博覧会で見た電車を導入する事で経営の起死回生を図ろうと、この開業に至るまで10年近くの間、多くの試練が待ち受けていました。今回はこの辺りをご紹介していきます。

明治24(1891)年、小田原馬車鉄道の経営陣は電車を導入するに当たって、運輸行政を司る当時の政府機関である逓信次官・前島密に意見を求めます。前島は、ちょうど欧米の電化事情を視察した逓信省職員を現地に派遣、現地視察の結果、「水力発電が得やすく、電気鉄道としては天与の好位置」と報告しました。その後の実地測量の結果、発電所からの電力によって、電車の運行だけではなく周辺地域への電力供給まで行うことが可能であると判明しました。この結果を元に、明治26(1893)年10月に電気鉄道への転換が株主総会で決議され、神奈川県に対して電気鉄道への変更を届け出ます。

電車導入への意欲は高まっていたが、電化に必要な多額の資金調達は未解決のままでした。そこで、東京馬車鉄道と協議し、「小田原馬車鉄道の株式1300株のうち、1000株以上を東京馬車鉄道に譲渡し、電化に必要な資金を東京馬車鉄道が負担する」という協定が結ばれました。つまり会社自体を売ってでも電化を実現しようとした事になります。これは東京馬車鉄道においても電気鉄道への転換を目論んでおり、小田原で電車運行の実績を先行して重ねて行こうとの思惑がありました。

これによって会社の経営権は東京馬車鉄道へ渡ったものの、資金調達の目途も立ち、明治29(1896)年7月には電気鉄道の敷設許可も得られたことから、同年10月には社名を小田原電気鉄道に変更しました。この時に資本金も70万円に増資され、出資者の顔ぶれの中には東京電燈社長のほか、関西鉄道(現JR西日本)社長に転じていた前島密、日本郵船社長、後に電力王と呼ばれる福澤桃介、後に鉄道王と呼ばれる根津嘉一郎(初代)の名前が見られ、これらは当時、小田原に多くの政財界の要人が別荘を構えていたことにも由来します。

まず電力を供給するための設備として明治31(1898)年に湯本茶屋発電所の建設が開始されます。これは、現在のホテルおかだの辺りと思われます。この発電所は、250馬力の水車四台、150キロワットの発電機三台を持つ、当時として類例のない強力な発電所でした。
続いて翌年2月からは軌道の電化工事が開始されます。橋梁の改修や架け替え、軌道敷設工事なども進められました。明治33(1900)年2月に発電所が竣工、同年3月には全ての工事が完了し、3月21日の開業を迎えました。馬車鉄道からの電化は東京の市電より早く日本では初めての事例で、電車路線の長さとしては日本一でした。

電車という先進的な乗り物は、地域の人々に大きなインパクトを与えます。
電化により、国府津〜湯本間が馬車鉄道は80分だったのが60分と20分短縮されました。
馬車鉄道時代の同年3月20日までの利用者数は、前年同時期と比較して1万1500人減少しているのに対し、電化後の2か月だけで1万7000人もの利用者増となりました。
更に、客車を2両3両と連結する事が出来るため、同年の6月からの半年間では4万人以上の利用者増と、電化によって利用者数の大幅な増加に繋がった事は、電化への転換が間違いないものであるとの確信を得ました。

その中で、電車の盛況を見た箱根山中の温泉村(現箱根町)から、路線を村まで延長して欲しいとの要請がありました。これは後の登山鉄道構想に繋がるものになります。

しかし、電化後の経営は必ずしも順調ではありませんでした。
明治34(1901)年10月、電車の乗務員たちが労働条件改善を求めて、同年11月25日から2日間にわたるストライキを決行、これは日本の電気鉄道では初のストライキと言われています。
また、明治37(1904)年には国府津と湯本に乗合馬車の事業者が参入し、資金力にものを言わせ電車より低い運賃で集客を図った事で運賃競争が発生しました。
災害の影響も多く、明治35(1902)年9月28日に発生した小田原大海嘯(台風に伴う高潮被害)では線路が埋没したほか、酒匂川や早川が毎年のように氾濫して被害を与えていました。特に明治43(1910)年8月の早川の洪水では風祭と湯本の間の線路が流失し、早川を越えていた木造の落合橋と前田橋の双方が流失しました。こうした水害から逃れるには、「路線そのものを変える以外に方法はない」という結論に達し、大正2(1913)年8月に山側へ軌道が移設されました。

それでも小田原電気鉄道は多くの改良を加えつつ発展し、鉄道事業と共に発展した電気供給事業も、最盛期には箱根・小田原・国府津・二宮・大礒・平塚まで供給し、黄金期を迎えました。
その頃、箱根に居を構えていた実業家の益田孝らを中心とする実業家たちが、海外からの観光客を更に誘致するため、箱根山にスイスの様な登山鉄道を建設すべしと、小田原電気鉄道に勧告しました。これを受けて、「天下の険」と呼ばれた箱根への登山電車の建設計画が持ち上がります。

次回は箱根登山鉄道の誕生について取り上げます。

文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ

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