2025.5.31
阿弥陀寺【コラム vol.17】
フォレストアドベンチャー・箱根
フォレストアドベンチャー・箱根の入り口の脇には「阿弥陀寺(あみだじ)」へと至る坂道があります。当施設のお客さまも、曲がり角の先が気になるのか、歩いて向かうという方もいます。時折、阿弥陀寺の事を聞いてくるお客さまもいらっしゃるので、今回は阿弥陀寺について取り上げます。
阿弥陀寺は、室町時代に大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ・南足柄市)の僧・安叟(あんそう)が曹洞宗の寺として創建したのが始まりとされています。そもそも阿弥陀寺のある塔ノ沢や塔ノ峰という地名は、その名の通り、寺塔がこの地にあったことに因みます。ちなみに塔の峰は箱根外輪山の一番東側で、その標高は566mです。
その後、廃寺となりましたが、慶長9(1604)年頃、浄土宗の僧侶である弾誓(たんぜい)上人によって開山されました。弾誓は尾張(現在の愛知県西部)出身で、12歳で出家して諸国を遍歴し、静閑な地に道場を設けて厳粛な中で念仏に励もうと、現在の本堂の裏山を350mほど登った奥の院と呼ばれる洞窟で6年間の修行に入りました。その間に当地を治める小田原藩の藩主だった大久保忠隣が土地などを寄進したのを受けて寺を創建しました。従って、現在は浄土宗のお寺です。
念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達を後に総称として捨世派と呼ぶようになりますが、その後、増上寺末の捨世地となり、明治初期の廃仏毀釈期に至るまで多くの浄土宗の僧が在住しました。
朝早い時間には、箱根登山鉄道の箱根湯本駅から塔之峰、明星ヶ岳へと向かう山歩きの皆様の鈴の音が響きます。阿弥陀寺は湯本駅からも歩けますが、塔ノ沢駅が最寄り駅となります。塔ノ沢駅は箱根湯本駅からたった一駅ですが、箱根湯本駅~塔ノ沢駅間の坂道を省けるので、体力に余り自信のない方は、塔ノ沢駅まで乗車した方がいいかもしれません。
中世の箱根路は箱根外輪山を伝って湯本に下りてくる湯坂路を通っていました。その湯坂路が通る山を湯坂山と云います。阿弥陀寺はこの湯坂山の谷間に流れる早川を挟んだ峰山の中腹に所在しています。峰山の頂部を塔之峰といいます。
当施設と箱根湯寮さんの間にある阿弥陀寺への参道である急階段を登って行くと、やがて風格を感じさせる山門が現われます。山門の扁額には、「阿育王山(あしょかおうざん)」と書いてあります。古代インドを統一し、仏教を広めたアショカ王に因んだ山号です。この山号のつく寺院は日本には三箇所しかなく、その由来は不明だとのことです。

寺への参道は男坂と女坂があって、苔むしている石段が男坂です。男坂は本来の参道で、女坂は舗装された道で車でも通れます。ただ、車で行く際にはすれ違いにご用心してください。
男坂と女坂のどちらを登って行っても予想以上の険しさを感じます。大きめな岩石をくり抜いた中に磨崖仏が彫られていたり、道端の石仏を見掛けると、出迎えてくれているかの様、ふと周りを見渡すと、箱根でもこんな秘境があるのかと思うほど山深い景色になってきます。
更に15分ほど参道を登って行くと、草深い平たい場所に出て、ぽつんと建つ古風な佇まいの阿弥陀寺本堂に辿り着きます。
本堂正面の軒下には1mほどの数珠が掛かった滑車が掛かっています。これは「百万遍転法輪」と言い、「南無阿弥陀仏」と念じながら廻すと、一周回すごとに般若心経を千回唱えたのと同じ功徳があるとか。江戸中期の天明4(1784)年に造られたもので、箱根町指定の文化財です。

当寺の御本尊は阿弥陀三尊で、元禄年間(1688年~1704年)に江戸本所・回向院の四世喚霊上人が旧本尊を阿弥陀寺に寄進したものと言います。
本堂の隣にある小さな建物には葵の紋があしらわれています。この建物は「葵の御堂」と呼ばれ、皇女和宮の位牌を祀る御堂です。和宮の法号「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」と記されています。
皇女和宮は14代将軍、徳川家茂の妻となった女性です。皇女と言うからに、実家は天皇家で、幕末の動揺する世相を幕府と天皇家が一体となって安定させたいという公武合体構想のために徳川家に嫁ぎました。

しかし、結婚が決まる前から和宮には許嫁となっていた相手があり、その相手と別れて江戸に下って来ました。江戸城の大奥に入ってからも公家風の生活様式を通すなど、大奥では何かと摩擦が多かったようです。しかし伴侶となった家茂からは愛され、家茂は側室を置かずに和宮との夫婦仲は良好であったようです。二人は寝所でもお菓子を食べながら夜遅くまで語り合うことが常であったといいます。また家茂は、遠乗りの途中に手折った石竹の花を贈ったり、彼女に似合いそうなかんざしを選んだり、珍しい金魚を手に入れては和宮を喜ばせました。この夫の愛情に応えるかのように、和宮もまた将軍家の御台所としての務めを尽くし、その立ち居振る舞いは「非の打ちどころのない御台所」と称されるようになりました。

文久3(1863)年、家茂が長州征伐のために上洛する事になりました。その際、凱旋の土産は何が良いかと問われた和宮は西陣織を所望しました。しかし家茂は征長の最中に大坂城にて病没、西陣織は形見として和宮の元に届けられました。和宮はそれを抱きしめたまま奥に籠り、1週間以上も泣き続けたと伝えられています。和宮は
「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
との和歌を添え、その西陣織を増上寺に奉納しました。後に追善供養の際、袈裟として仕立てられ、これは空蝉の袈裟として現在まで伝わっています。
家茂の死後、和宮は倒幕の機運の中でも徳川家と朝廷の間を取り持っていましたが、かつて和宮の許婚であった有栖川熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を総帥とする新政府軍が江戸に迫ります。
和宮は将軍家の正室として徳川家の存続に奔走、江戸城無血開城に尽力することで江戸の街を戦火から防ぎました。
その後、住まいを京都へと移りましたが、脚気を患っていたこともあり、明治10年に医師の勧めで転地療養のため、箱根・塔ノ沢温泉の老舗旅館「元湯中田家」(現・環翠楼)で療養していましたが、9月2日に死去、32歳という若さでした。時の阿弥陀寺住職が弔った後、葬儀は芝・増上寺で執り行なわれました。お墓は増上寺に夫の家茂と共に並んでいます。徳川将軍の墓地で、このように夫婦で並んでいるのは、この二人だけだそうです。

明治16(1883)年、和宮の七回忌を阿弥陀寺で行った際に位牌を祀る香華院となり、増上寺より、和宮が家茂の無事を祈ったとされる黒本尊の御代仏(みだいぶつ)の寄付を受け増上寺の永久別院となりました。
この黒本尊は、増上寺安国殿の御本尊である黒塗りの阿弥陀如来の通称で、日本の浄土教の祖と称される平安時代の僧・恵心僧都の作と言われています。正式の呼称は「黒本尊御代仏」で、元々は金箔の仏像だったのですが、長らく焼香のススで黒ずんでしまったことから「黒本尊」との名称があるようです。
縁あって岡崎の寺にあったのを徳川家康が岡崎城の守り本尊とし、黒本尊と寸分違わぬ造りの御代仏を造像し、戦場へ赴く際には必ず黒本尊御代仏を運ばせて戦勝の御加護にあずかったといいます。度重なる災難を無事に潜り抜けて将軍になれたのも、黒本尊のご加護による霊験であるとして、御代仏は徳川将軍家代々に崇敬されました。和宮もまた、この御代仏に家茂の加護を祈り、家茂亡き後は御念持仏として側にお祀りしたのです。
和宮はその功績と悲運が語り継がれ、1933年に数体のブロンズ像が作られました。その一つを所蔵していた都内の団体が、和宮が明治10年に他界してから145年目の2022年、皇女和宮のブロンズ像が寺に寄贈しました。
像の高さは台座を含め約130cm、和宮の実際の身長が推定143cmとされるので、それに近しい大きさの像です。大垂髪(おすべらかし)という髪形で七重の衣をまとい、右手には扇子という皇族女性の姿を象っています。寺にあった和宮の位牌と共に、「葵の御堂」に納められました。
皇女和宮のブロンズ像は、住職による琵琶の演奏を聴いて拝観します。琵琶を奏でながら詠み上げる、京から江戸へ降嫁した悲しみを帯びた和宮の和歌は人の心を打ちます。(志納金は千円。予約は阿弥陀寺[0460-85-5193]へ。)
阿弥陀寺で人気のアジサイは近年、繁茂する草や高木の影響で花が減少、コロナ禍のため観光客が激減した寺で、ツバキを増やしています。観光客らが1本5千円の寄付で名前入りの札を立てる事も出来ます。境内のツバキは以前からの木も含めて約400本になり、約100本が、開花時期の10月~5月ごろに鮮やかな色の花を咲かせている。
中でも、山口県で園芸業を営む方から贈られた新種のツバキは、白い花びらがチョウの羽のように薄く、ふちにかすかな赤みが帯びています。気品がある姿が和宮のイメージと重なると「皇女」と呼んでいます。
皇女という高貴な家に生まれながら、許婚との別離、わずか数年にすぎなかった仲睦まじい夫婦生活、実家と嫁ぎ先の相対する関係からの戦いと、その戦いを回避するための奔走など、歴史上に残る波乱と悲劇に満ちていた和宮の人生を阿弥陀寺は伝えています。

最後にお願いです。
阿弥陀寺へ行かれる皆様、フォレストアドベンチャー・箱根の駐車場には停めない様にお願いいたします。
文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)