2024.10.27
箱根の交通事情 ⑦駆け巡るバスたち【コラム vol.14】
フォレストアドベンチャー・箱根
多くの人々にとって身近な交通機関と言えるバス、そしてDoor to Doorで目的地の直近まで移動できるタクシーなど、自動車を用いた交通機関は人々にとって身近な交通機関です。
日本で自動車を用いた運輸業、現在で言うタクシー業が開始されたのは明治時代末頃と言われていますが、箱根ではほぼ同時期に始まっていました。
今回は、日本のタクシー・バス事業に先鞭を付けた富士屋自働車や、それに続けてバス事業に参入した各社による企業競争についてご紹介します。
明治40年代になると、日本でも自動車が走り始め、国外からの旅行者が自動車で箱根を訪れるようになっていました。そこで、小田原電気鉄道(現箱根登山鉄道)湯本駅の駅前にて茶屋を経営していた1軒が、明治45年にMF商会というタクシー業を開始しました。これに驚いた小田原電気鉄道では、翌大正2(1913)年3月1日よりタクシー業に参入しました。
当初の車両数は5台で、国府津駅から強羅までと、芦ノ湖畔の箱根町を結ぶ区間での営業でした。これらの貸自動車業は、人力車夫や駕籠かきからは商売敵として受け止められ、路上にガラス片をまかれたり投石されたりといった運行妨害を受けることもあったそうです。
その頃、宮ノ下の富士屋ホテルにて、宿泊客が頼んだ自動車が約束した時間よりも遅れて配車され、国府津駅への到着時間が遅くなって列車の発車時刻に間に合わなくなりそうな事態が発生しました。後日、この顧客から
「富士屋ホテルともあろうものが、なぜ他社の自動車を頼りにするのか?一流のホテルが1台の自動車も持たないのか?」
との意見書が送られました。これを受けて、当時、富士屋ホテルの取締役であった山口正造氏は自動車を購入することを社長であり義父の山口仙之助に進言しますが、現在の価値で3,000万円近くする高価な自動車の購入には二の足を踏んでいました。
すると、オランダ公使が本国に帰国する際に7人乗り幌型自動車1台が売りに出され、これを好機と見た山口正造は実家の親族などから借金をしてまで購入を決断。これを以て大正3(1914)年8月15日に富士屋自働車を設立し、3台の自動車で営業を始めました。

先発のMF商会や小田原電気鉄道と同じく、国府津駅と宮ノ下の富士屋ホテルを結ぶ路線を核に、富士屋ホテルから箱根各地を結んで営業しました。富士屋自働車では外国人観光客を念頭に、当初から東京・横浜と宮ノ下を結んだ貸切自動車の営業を行ったことが注目されます。
富士屋自働車では運転士に当時としてはモダンな青襟・青袖の制服を着用させ、運転技術や道路地図の習得だけでなく、礼儀作法と英語をも学ばせました。
前述した自動車に対する嫌がらせに対しては、人力車夫や駕籠かきを営業していたものに対して、タクシーは大きく伸びるからと、富士屋自働車の株主になることを薦めました。
3台の車両で始まった富士屋自働車は、大正7年には車両数32台、売り上げは当初の27倍にもなりました。
富士屋自働車ではタクシー業を開始した際にも反対運動があった経験から、乗合自動車、つまり現在のバスの運行については慎重に時機を伺っていましたが、何より箱根の道路が大型の自動車を通るには狭いという事情もありました。
しかし大正8(1919)年6月1日から箱根登山鉄道が開業することで経営に大きく影響すると考えられることから、国道の拡幅などの工事費を負担してまで乗合自動車の運行許可を得ました。それを以て箱根登山鉄道開業の同日から国府津駅から宮ノ下、宮ノ下から箱根町においての乗合自動車の運行も開始しました。
初めての乗合自動車の運行のために、富士屋自働車からも車両メーカーに様々な要望を盛り込みました。目立たせるために赤く塗った自動車は好評だったようで、その形から「富士屋の弁当箱」と呼ばれて親しまれ、箱根観光の大衆化をはかりました。これは神奈川県下においても初となる本格的な路線バス運行であります。

富士屋自働車と小田原電気鉄道は貸自動車の時代からほぼ同じ路線を運行していたため、早くから企業間競争が繰り広げられていました。
小田原電気鉄道は小涌谷から箱根町まで、自社の登山電車に接続する路線バスの運行を大正10(1921)年より開始しました。同社が開園した強羅公園や別荘の分譲地を中心に、同社ならでは強みを見せます。更に芦ノ湖で遊覧船を運行していた箱根遊船(後の駿豆鉄道、現伊豆箱根鉄道)と提携するなど、より広域な箱根の回遊ルートを展開しました。
そして、富士屋自働車の「青襟・青袖」制服に対し、小田原電気鉄道では「赤襟」を採用し、この色が双方の目印となりました。

登山電車で小田原から宮ノ下までの運賃が下等で61銭で、それでも下りは歩いて湯本に戻る利用客も多かった状況では、小田原から宮ノ下まで1円80銭もの運賃が設定された富士屋自働車のバス利用者は更に少なかった。そこで富士屋自働車では大正11(1922)年には運賃の値下げを行い、小田原から宮ノ下までのバス運賃は1円としました。また、同年には小田原駅前に営業所を併設した食堂・売店として「カフェ・レゾート」をオープンさせます。
一方の小田原電気鉄道側も運賃を値下げして対抗しました。
その一方、自動車の急速な増加による諸問題には、制限速度や通行の優先順などの協定を両社で結んで安全確保に努めました。
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は箱根にも大きな被害をもたらしました。
富士屋自働車では前年に完成したばかりの「カフェ・レゾート」が倒壊、車庫にあった数十台の自動車も倒壊した建物に巻き込まれて損壊。また、湯本と塔ノ沢の間では乗客5人を乗せた自動車が崖崩れにより埋没し行方不明となり、底倉にある蛇骨川の橋を渡っていた自動車が谷底へ転落するなど、保有していた自動車の半数近くが失われるという被害を受けました。
震災後、富士屋自働車は復旧と共に車両の改良に注力します。震災翌年には当時としては超大型となる25人乗りのバスを導入し、また震災復旧で石畳敷きの東海道に変わり「箱根新道」(現国道1号線)が開通したことから、バスやトラックで三島・箱根・小田原への通行が可能となった事で、三島・沼津にまで路線網を拡大。沼津から国府津を結んだ事で、東海道線が御殿場経由で大きく迂回する当時は、国府津と沼津間を富士屋自働車の乗合自動車に乗り換えた方が早く移動できる事から、これを利用する人もありました。

一方、経営が悪化していた小田原電気鉄道は、昭和2(1927)年1月に一旦日本電力に合併した後、同年8月に再度、箱根登山鉄道として分社化されました。
鉄道やバスの復旧と共に、再び激しい乗客争奪戦が展開されることになります。
箱根登山鉄道が昭和4(1929)年には国府津まで、昭和6(1931)年には箱根湯本と箱根町を結ぶ自社鉄道線と並行する路線バスの運行に至り、小田原駅前に乗り入れるようになると、この二社の競合は更にエスカレートし、現地での社会問題にまで発展します。
富士屋自働車はアメリカ製の高級バス「ホワイト」を導入。


対する箱根登山鉄道はスイス製の高級バス「サウラー」を導入し、小田原駅前では富士屋自働車の社員は「乗り換えなしで箱根へ」と宣伝、一方の箱根登山鉄道の社員は「電車の方が静かで安い」と声を上げ、女性の車掌が自社のバスに乗せようと観光客を自社へ誘導します。時には観光客の手を引っ張りあい、激しい乗客の奪い合いがエスカレート、酷い時には両社の社員が乱闘事件を起こすという事もあったようです。
ここにきて、小田原市や警察署長、更には鉄道省が両社の合併を再三に渡って勧奨する事態になり、昭和7(1932)年に両社のバス事業を統合する事になりました。こうして、昭和8(1933)年1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更、同社は箱根・小田原の路線ほぼ全てを網羅し、戦前のバス交通を担いました。
富士箱根自動車が誕生した昭和7年、箱根で別荘地の分譲を行う箱根土地を経営する堤康次郎が、箱根の景勝地各所に自動車専用道路を敷設して、そこに傘下である駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)のバスを運行し始めました。堤は別荘地と、傘下にある芦ノ湖の遊覧船を運行する箱根遊船などを結び付ける路線網を構築し始め、新たな競争相手となっていきます。
しかし、色濃くなりつつあった戦時体制の波はバス会社に影を落とすことになります。
昭和10(1935)年に電力の国家管理統制が行われると、富士箱根自動車は箱根登山鉄道と共に日本電力の傘下に入ることになります。ガソリン統制による木炭バスへの運行の切り替えや、不要不急の路線は休止を命じられることになり運休路線も拡大。鉄道並行路線や観光路線などはこれによって休止となりますが、元々観光地である箱根では全路線の6割強に達しました。
富士箱根自動車は昭和11(1936)年には2月22日に下吉田 – 長浜間(山梨県)、御殿場 – 須山間(静岡県)を、10月18日には今里 – 裾野間(静岡県)を富士山麓電気鉄道(現富士急行)に譲渡するなど、神奈川県外の路線の整理を行いました。
戦時体制が強化により企業統制が進められ、昭和17(1942)年5月30日、箱根登山鉄道ならびに富士箱根自動車は日本電力から東京急行電鉄(現東急)に譲渡され、箱根登山鉄道の社長に東京急行電鉄社長の五島慶太が就任。両社は東急の影響下に置かれることになりました。また、同年の陸運統制令に基づき、運輸業の地域統合の母体に箱根登山鉄道が選ばれることになり、昭和19(1944)年7月31日付で富士箱根自動車は箱根登山鉄道の傘下として同社の自動車部門となりました。
終戦間もない昭和20(1945)年11月より、富士箱根自動車は小田原から宮ノ下・江ノ浦への路線について運行を開始、以後順次休止路線の運行再開を図りますが、昭和23(1948)年、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急から、小田急電鉄(小田急)・京浜急行電鉄(京急バス)・京王帝都電鉄(京王バス)が分離し、神奈川中央乗合自動車(現神奈川中央交通)と共に新生・小田急の傘下に入ることになるなどの混乱もあり、路線網がほぼ完全に復旧したのは昭和29(1954)年と9年を要しました。
戦後復興に伴い箱根に大挙して観光客が押し寄せていた中、「箱根山戦争」と呼ばれる東急グループの箱根登山鉄道と西武グループの駿豆鉄道による熾烈な観光客獲得競争は、第12回のコラムでご紹介した通りです。
その後、平成14年には小田急グループ内の事業再編に伴い、分社化され箱根登山バスとして現在に至っています。営業開始当初から熾烈な顧客獲得競争が繰り広げられていたバス事業、それだけ人々に密着した交通期間であると言えます。
文・写真とも「あらゆる歴史物語をカタチにする」軽野造船所
(フォレストアドベンチャー・箱根スタッフ)